孫兵衛堀考
←《荒町小学校の校庭東隅にある孫兵衛碑》
はじめに
長州の人である川村孫兵衛重吉が、伊達政宗によって召し抱えられ、仙台領内の多くの土木工事・河川工事を行ったことはよく知られています。それらの多くの功績の中に孫兵衛堀の掘削があります。
孫兵衛堀については、種々の古記録があり、多くの人によって論ぜられています。ここでは今は殆ど痕跡をとどめない堀の経路を訪ね、絵図や古記録に記されている疑問を整理して仮説を立ててみることにします。
1.孫兵衛堀の経路
仙台市荒町小学校の校地の東側に、大正13年に建てられた高さ50pほどの小さな石碑があり、「孫兵衛堀跡」と刻まれています。
また「仙台市荒町、土樋、土樋一丁目公図」に、堀が公地だったためでしょうか、堀の跡が描かれています。
《仙台市荒町・土樋・土樋一丁目公図(仙台市博物館蔵)》
五橋清水小路を流れる四ツ谷用水堀から分流する孫兵衛堀は、荒町小学校の校庭を横切り、姉歯横丁の西側を流れます。荒町小学校は中町段丘の上にあり、校庭の南端が下町段丘との境で段丘崖になっています。
《左は姉歯横丁 右は若林区荒町付近(MSC航空写真地図)》
この段丘崖に沿って昌伝庵・仏眼寺の墓地の下を東に流れて石垣町に出、現在の石垣町・土樋角に明治堂という菓子店の北側を通って石名坂に出ます。《左は明治堂 右は閻魔堂横丁(明治33年最近実測仙台市街図「絵図地図で見る仙台」》
堀はここから段丘の緩やかな傾斜を西から東に弓形をなして大安寺境内の東を流れます。この弓形の曲線は、弓ノ町と石名坂の境になっています。江戸時代の堀跡が町境に成ったのでしょう。途中には堀跡の痕跡を残している所があり、国見松が目印になります。
《左は法運寺 右は法運寺裏の孫兵衛堀跡》
大安寺に出た堀は、荒町と交わる南鍛治町に板橋が架かっていました。その橋を潜って仙台一高の西を通り、法運寺・大徳寺・道仁寺の東を長町利府活断層線に沿って東北流します。法運寺の裏側に堀の跡が残っています。
孫兵衛堀は、活断層線の長町利府線と大年寺山線に挟まれた隆起帯の上にあるお寺の東を流れていました。両断層線は榴岡で切れており、その部分を仙台城下から榴岡天満宮の下を流れてきた源兵衛堀と柳沢で孫兵衛堀が合流します。
《左は活断層分布(仙台市史 自然)右は孫兵衛堀と源兵衛堀合流(MSC航空写真地図)》
2.初代川村孫兵衛の構想は?
正保の仙台城絵図を見て見ましょう。ここには孫兵衛堀が広瀬川から取水して宮城野への流れが描かれています。ここに二つの疑問があります。一つは取水口をずのような位置にすると、かなり高い堤防を築かねばならないこと、それは当時の技術では不可能でしょう。二つ目は、新田開発のための用水としての根拠がうすいこと、なぜならば宮城野の大部分が生巣原だからです。
次に元禄絵図をみましょう。荒町で取水していることは前に見ました。現在の福島美術館付近に「古堀水溜」が描かれています。「古堀」ですから前にたどった堀とは別に以前から古い堀があったということを示しています。
《左上は正保の仙台城絵図(齋藤報恩会蔵) 右上は元禄の仙台城下絵図(齋藤報恩会蔵) 左下は明治26年仙台市測量全図(仙台市史 城館付録) 右下は古堀水溜(元禄絵図より》
2.初代川村孫兵衛の構想は?
この絵図と関連した元禄年中に成立した「仙台鹿の子」に次のような記載があります。引用してみましょう。
孫兵衛堀は新寺小路と生巣原との境の堀なり、(略)水上は
荒町東の板橋より流れ出、昔は米ケ袋の岩穴より土樋を回し
宮城野へ流す、その頃川村孫兵衛とてうなじに鱗三枚生じた
る侍披露の上掘りたるなり
この記事の中で「昔」というのが「古堀水溜」で、「米ケ袋の岩穴より」が高い堰ではなく、上流で取水し岩穴(トンネル用水路)の中を流し、土樋(土管)を清水小路からの流れの上を渡して「古堀」へ通したと考えられる。
以上のことを端的に表現すれば、初代川村孫兵衛重吉は、寛永期の始めに北上川の改修工事を終わり、仙台城下の四ツ谷用水の掘削に取りかかるときには、広瀬川を用水源とする宮城野原の新田開発の構想があり、孫兵衛堀の掘削した。しかし、伊達政宗の都市計画に仙台城下の東に広がる宮城野は生巣原となり、岳山を水源とする広瀬川よりの取水は必要がなくなり、清水の豊富な清水小路の中堰からの取水に切り替えたのではないでしょうか。
二代川村孫兵衛元吉は、城下の洪水を防ぐために、前に記したように源兵衛堀を掘っています。源兵衛堀は、最近まで悪水堀と言われ排水と、蒲生村・新浜・荒井村・岡村の四ケ村用水の機能をはたしてきました。「伊達世臣家譜」には「東郊の田は汚流を得たため熟田が出来た、これは皆、元吉の力也」と記されています。
なお、明治26年の仙台市測量全図には、孫兵衛堀が広瀬川へ排水されており、宮城野には流れていないことが知られる。
このホームページは私が「市史せんだい 9」で「孫兵衛堀ー町方防火用水確保と村方潅漑用水権の争いー」で報告をした内容を基にしています。資料の所在や文献などについては同書を見てください。
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