秀頼公薩州にて御死去の届けの事


 高等学校の日本史の教科書で秀頼について「慶長8年(1603)、家康は江戸幕府を開いたが(中略)豊臣氏は秀頼が秀吉のあっとをつぎ、大坂城にあって勢力を維持したが、家康は口実を設けて戦いをしかけ、二度の大坂の役で豊臣氏を攻め滅ぼした」とあり、『日本史小辞典』には「(家康は)秀頼の転封を強要したため15年(元和元)に戦闘が再開となり、5月18日大坂城は落城し、秀頼・淀君母子は自殺した」とあります。史料を読んでいくことにしましょう。なお、インターネットで「豊臣秀頼薩摩」を見ると関連する史跡その他にたどりつきます。


古文書《秀頼公薩州にて御死去御届之事》


解読文《秀頼公薩州にて御死去御届之事》
   六十八
一  秀頼公薩州にて御死去御届之事
 享保十八年松平薩摩守使者渡辺源兵衛江戸着御老中御月番松平右京太夫え口上ニて彼の人死去仕候、別紙の壱封ハ為御家之不可」然候間、差出申候、何日八つ時過登 城ニて申上候 右京太夫ニてハ不分ニて申上候由也
三代将軍家光公ノ御沙汰ニ何才ニて死去ニ候哉、子とも有無尋」ニハ年齢百十三才に候、女子ハ両人末男当三才、女子両人ハ家来え」縁組仕候由ニ申上ル、右男子来参府之節召連候様被仰出御暇被成下」参府之右男子連登候上五千石被下置、鳫之間詰山王別当」樹下日向守と被仰付候、其分レ京都ニも有
此壱封ハ秀頼十三才ニて天下を遜り給ふ、家康公之御直書之由」なり
右秀頼公薩州・・・・・有リシナリ





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