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伏越(フセコシ)とは、同じ器の水は常に同水位にあり勾配があることにより、水は重力で低い方に流れるというサイフオンの原理によるトンネル水路です。逆サイホンともいいます。出口では湧きあがるように見えますので、各地に「涌き上がり」という地名があります。
《左はサイホンの原理 右は鳴子南原堰の「涌き上がり」》
国道48号を仙台から西に進み、広瀬川と新川川が合流する所にニッカウィスキー工場があり、近くの国道から川崎潜穴の取水口を見下ろすことができます。トンネルは84メートルで、中ほどに狭間(サマ)があり、穴尻から川に下りて進むと狭間から水が溢れているのを見学することができます。仙台領の潜穴の殆どが凝灰岩を掘り抜いているのと違い、堅い岩盤です。
《川崎潜穴位置図(仙台市史近世2)》
《左は熊ヶ根橋 右は籠石を見下ろす》
《左は失敗の原因 右は籠石》
流木とは「ながしぎ」と言い、仙台城や城下で使用する薪を、広瀬川、その支流の新川川(ニッカワ)・大倉川および名取川上流の藩有林を伐採しして川に流し、広瀬川は角五郎木場(青葉区角五郎)に、名取川は長町木場(太白区長町)に集積します。
はじめに明治39年に長町在住の佐藤文吾さんが著した「仙台市外神拝記」(原本大竹誠一氏藏 「
宮城県古文書を読む会」翻刻)の流木の部分を要約引用して全体像を把握してみましょう。
以上が「仙台市外神拝記」の概要です。詳細は「仙台郷土研究 213号」の大竹誠一「長町木場について」があります。本伐人足について明暦2年(1656)の名取川流木の資料には「最上庄内より五十人日用にやとい」とあり、「奥州名所図会」には「津軽・野辺地」とあります。
流木の作業は山中に小屋を作り(小屋掛)、住み込んで木を伐ることから始まります(本伐)。伐採された木は、翌年の流木のために棚にして積んでおきます。本伐の人夫は最上・庄内や南部の出稼ぎ人が多かったようです。
正月が過ぎると山に登り、前に積んでおいた棚木を雪の中から掘り出してソリで沢まで運びます(沢出し)。沢に鉄炮堤を作り、流れを堰き止めて、流すときには堤を壊して、水の勢いを利用して中揚げ場所まで運びます。
中揚げ場所でしばらく乾燥させて、大川(広瀬川)下げをするために木場近くに大留を作り、それが終わると「入れ木」をして川に流します。中揚げ場所は名取川上流では野上(ノジョウ)、川崎にあり、秋保長袋には「中揚げ」という地名が残っています。大倉川では野川と大原川の合流地、広瀬川・新川川の流域は両川が合流するニッカウイスキー工場の対岸の平場です。ここは川崎潜穴の出口(穴尻)に位置しています。 流木本数四十五六万本で藩主が在国のときは六十万本くらいである。流木の御払(無償)は、城中14ヶ所と有役の家中で、無役の藩士は1切5駄の有償の払い下げであった。長町木場は北一番丁まで、角五郎木場は大橋より川内までと北二番丁以北に駄送する。角五郎木場にも毎年三十五六万本の流木が集積される。
薪の切り方は二月中旬に始まり、名取川上流の二口峠麓、笹谷大森嶽麓まで伐木する。谷あいに堤を築き、長さ三尺の木は雨が降り出水のとき堤を切り落として勢いをつけて流木する。また野上(ノジョウ)、川崎などに留をつくって中揚げをする。伐方人足の七八割は南部衆である。人足に対しては一日白米一升五合・味噌二百目に銀十匁が与えられる。流木はすべて四月中旬の田植え前である。名取川六郷七郷堰の前に大留を作って小木一本も洩らさないようにした。流木が始まると伐方の者も山を下りて流木を手伝う。一週間ほどで流木が終わると、そのあと途中で流れなかった流木の始末をするが、このことを跡払という。
広瀬川の流木は、下流にある鳳鳴滝を避けて川崎潜穴から流れてくる用水路に中揚げされた木を入れ関集落の前田で用水路から分かれ、再び広瀬川に落とし、角五郎木場に棚積みされます。同所は澱橋木場として明治30年ころまでは存続したようです。
このようにして村あるいは商人によって請け負った流木は藩によって買い上げられます。天保7年(1836)の記録によりますと、大倉村中崎御林で伐り出された流木を従来金1切で130本で買い上げてもらっていたのを「米穀払底高直」のときであるので110本にして欲しいと願い出ています。
また名取川流木の収支決算では流木総本数58万6千本で、この中から「失せ木」14万7千本、城中台所など無償の分を引くと34万1千本となり1切110本で払い下げると3100切となります。この中から158人の1年を通しての人夫賃など1178切を引くと1921切(460両)が残り、藩の収入となっています。
白髭のつく地名や伝承は東北各地にみられます。白髭水とは未曾有の洪水につけられた名称で、その由来について共通しているのは、洪水の際に、あるいは洪水の予言者として白髭の翁が登場することです。大倉村にも昔から横川の奥に「霊場」があり、ここの木を伐ると「天気無然」になるという申し伝えがあります。横川の奥には後白髭山があり、続いて山形県と境を接する五所山(船形山)が聳える船形山は今でも作神として親しまれています。
文政2年(1829)7月、国分山根通り(大肝入支配)の13ケ村の肝入たちが去年より山に入り伐り方を始めると雨が降り続き、人足たちが下山すると快晴になる。また木を伐りに山に入ると降雨があり、「諏訪神社筒粥記」によると八幡町や愛子街道・半子町や、中山街道が水浸しになり夏麦も萌え腐れになり、今は稲の出穂の大切な時期なので切り方をやめて欲しいと訴えました。その後、天保4年(1832)・7年にも「小前騒動」があり、安政5年(1858)には「九月下旬より伐り始め三月には終わらせて、田植え前の四月に川下げをするように」と願い出ています。以上のことは『仙台市史 資料編4』の「凶作・飢饉」(農民騒擾)に詳しい記録があります。
『仙台市史 資料編4』のグラビヤに「国分大倉村嶽山御村絵図」があります。この絵図は「日本林制史資料 仙台藩」から引用したものです。絵図裏書きには二ヶ所の朱線内は伐木を禁止すると記されていますが、カラー写真でないのでわかりません。朱線は著者が入れました。また印刷が不明瞭なので、読めない所を確かめようにも原本がないので確かめられませんでした。
図に「白髭山」とあるのは現在の「後白髭山」でしょう。図の主流は、広瀬川の支流大倉川で、北東にのびるのが横川です。農民騒擾の記録には「横川の奥は霊場」とあります。朱線内が霊場なのでしょうか。絵図に書き込まれている「白髭山麓まで大道三里半(14キロ)」とあり、大倉川と横川の分流点近くの沢の名がかろうじて読める「カンガネ沢」で、ここが霊場への入り口でしょうか。国土地理院の地図を見ますと「神掛川」とあるのがこの沢でしょう。近くには今でも参詣客で賑わっている定義如来(ジョウゲニョライ)が記されています。
《大倉村嶽山御林絵図(仙台市史 資料編4) 左上は定義山より白髭山を望む》
農民騒擾があったのは「後白髭山」で、山形県との境に「白髭山」があります。ここからの眺めは絶佳です。大都市仙台近郊で深山幽谷を肌で感ずることの出来る眺めです。しかも山頂近くまでクルマで、歩くこと30分の距離です。残念ながらここからは後白髭山は見えませんでした。
白髭山の名称の由来を知るため前述しました「白髭水」を調べてみましたがたどりつくことが出来ませんでした。
白髭水について東北地方建設局岩手工事事務所編『北上川 7輯』に「白髭洪水の名詞が県南地方に流布されるに至ったのは、昭和6年刊行の南部叢書を読んだ某教員が、その生徒に語られたのが初めと言うが、一般住民の間で耳されるに至ったのはカスリン、アイオン台風洪水等の以後であり、その名詞が一般に用いられに至ったのは極最近の事である」とありました。
また『水沢市史 6』の「白髭明神とスゲラ堰」では、「胆沢町と水沢市の接点三分森(ミワケモリ)の東麓下の雑木林の中に、今は小さな石祠が残るのみであるが、これが半島人の残した証跡、白髭明神祠跡である」とあり、詳細に検証していることを付記しておきます。
《左は秋保野中の中揚げ 右は流木を操作する秋保の名勝磊々峡(奥州名所図会)》
藩中の薪材は、春秋に名取・広瀬の両河を流し下す。その数万を以て百を算ふ。その傭雇(やとひびと)に夫頭ありて、山伐・薪負(やまたち・きはこび)、或いは食子・運料夫(めしたき・かてはこび)に至る人数また千を以て算ふ。この逓夫(にんぷ)ことごとく野戸地(のへじ)津軽の小転(こびゃくしょう)等所属を卒ゐて斧鐇を担ひ、稲の花のとむをみて仙台に来り、年を越して春分燕の来るを見て国に帰る(仙府の俗呼びて雇渡人(やとうへ)よ云ふ。てまとりの渡るとも云ふなり)。その間に、僅かの給金を得て、巳収納の助とすると云へり。このものども、山岳浮役の自在なる事、崑崙奴(くろぼう)のふるまひなり。知るべし。金玉のたやすく得難き事を。遥かの海山を遠しとせずして来り、半年の間に金六十目を得るもの、かせぎの上とすると云ふ。かの鬼奴が海底に珊を探るにひとしかるべし
なお名取川流木については、資料が不足で今後、管見に入り次第、加筆したいと思います。
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