加美町の穴堰

はじめに

 穴堰とはトンネル用水路のことで、仙台藩では「潜穴(クグリアナ)」と言っています。全国的に有名なのは「箱根風雲録」という映画にもなった箱根用水があり、近くでは金沢市の辰巳用水が知られています。
 仙台藩の新田開発についての研究は進んでいますが、肝心のトンネル用水路である潜穴の研究はほとんどありません。左の写真は、このことに気づき私は平成9年から仙台領内の潜穴めぐりをして『仙台領の潜り穴』と『御普請方留』(翻刻)を活字にしました。
 歩き始めてみますと、各地の土地改良区には詳細な調査研究があり、地域の方に声をかけますと「そんな穴堰だらおらほにも・・・」との声が沢山あり、それらの人たちのご協力を得て活字にしたのがこの本です。   


 加美町は平成の合併で、宮崎町と小野田町が一緒になって加美町となりました。加美町には田川と鳴瀬川が東流して中新田町で合流ししています。従って田川水系と鳴瀬川水系となります。田川にはいくつかの沢水や小河川が流入していますが、このHPでは潜穴のある場合に限ることにし、田川水系の中で取り扱うことにします。 

1 田川水系
【二ツ石堰ーー三百間潜と永志田堰ーー】
   永志田堰は江戸時代の初めには掘削されていたのでしょう。この堰は芦沢が田川と合流する寒風沢で取水をして二ヶ所の潜穴を潜り、等高線に沿った平堀で永志田地区に導かれています。
 永志田堰の水量の不足を補うために、天明3年(1783)から寛政4年(1792)にかけて二つ石沢の水を堰あげて三百間潜を造成して芦沢に流しています。現在は北に新三百間潜を造り旧三百間潜に連携しています。近くにお住まいの早坂保明さんのお話を聞いてみましょう。

 三百間潜は約570mあり、その中ほどに天井が高く、広々とした空間があり「銀座通り」と言っています。これは穴頭からわずかに傾斜をつけて掘り進み、通路にくぼみを付けています。これは天井から落ちてくる水を流す工夫です。穴尻から銀座通りまでの中間125mの所に直径2mの「空気穴」が明けられており、酸欠防止・砂利出しのための穴です。

とのことでした。旧三百間潜の掘削は天明年間、10年かけて長さ570mのトンネル水路で、この時代の技術の一端を知ることができます。白虎隊が猪苗代湖近くの戸ノ口原の戦いで戦況不利を知り、疲れた足を引きずり城に向かい飯盛山で自刃します。その時、飯盛山に通ずる弁天洞という潜穴を潜ります。ここも真ん中付近が広々としているとのことです。
 この広々とした空間は、潜穴の両端から掘り進め、水平の誤差が横の広がりとなり、垂直の誤差が天井までの高さとなりました。この誤差が少ない場合には中ほどで屈曲しています。タガネの音に耳をすまし方向を決めていったのでしょう。凝灰岩を削るタガネの音は100m先まで聞こえるそうです。


《五十嵐堰模式図》

  【五十嵐堰】
   宮城県図書館に五十嵐堰の絵図が所蔵されています。この堰は南永志田方面の用水を目的にしていましたが幻におわりました。各所にその跡を確認することが出来ます。絵図の中に「南部小屋」、羽黒堂脇に「金掘小屋」が書き込まれています。
 しばらく前のホームページに「穴堰巧者南部の吉助」を紹介しましたが、岩手県和賀郡後藤村に穴堰の技術集団が仙台藩にきて仕事をしています。酒造りの南部杜氏や気仙大工の出稼ぎと同類でしょう。金堀小屋は鉱山関係労働者の小屋でしょう。
 この潜穴のことを地元では「五十嵐堰」と呼んでいます。幕末に検断を勤めた五十嵐勇蔵という人が明治になって、北永志田方面の用水確保のため掘削しましたが難工事のために通水にはいたりませんでした。

【川底堰】
   県道262号を西に進むと切込焼記念館があり、道をはさんで「ゆーらんど」があります。道の脇を澄川が流れ、温泉交流センターから500m上流に堰堤があり、澄川右岸に穴頭が遠望され、温泉センターの裏に出るはずの穴尻は確認できませんでした。この堰は聞くところによると高さ4尺、幅3尺の100mの潜穴だったそうです。川底沢堰については情報不足ですので割愛します。

【坂下堰】
   坂下堰は水のかかる落合の地名から落合堰とも言っています。仙台藩重臣石母田氏は、中世以来の宮崎城(麓地区)に居住していましたが、傾斜地で狭く街道筋から離れていたので、明暦初年に現在の宮崎に新しく居館および町場を造りました。町場を城下町と言いたいところですが、城は仙台城と白石城しかありませんので私は館下町と言っています。
 潜穴は坂下橋のたもとで取水し、館下町の北端を田川に沿って約1q潜って大乗院で閉口しています。途中崩れた跡が二箇所があり、麓橋からは狭間を遠望することが出来ます。


<行沢堰>
 「なめさわ」と読みます。麓橋を渡ると、大崎五郡の一ノ宮であり、宮崎村の鎮守熊野神社の階段が見えてきます。熊野神社は21年目ごとの春祭に御神体が鳴瀬川沿いに下って、鳴瀬町浜市で潮垢離(シオゴリ)の行事が有名です。
 行沢潜穴は行沢から取水して、山沿いに潜穴で通水し、穴尻は熊野神社上り口付近にあり、途中崩れた潜穴が露出していました。

     【烏川堰】
 『宮崎町史』によると、古くからの用水で石母田氏以前の館主牧野大藏が寛永頃に開削したとあります。熊野神社の階段の中ほどを横切って進むと、間もなく右に葛西大崎一揆の拠点となった宮崎城跡があり、さらに進むと古刹洞雲寺で県道267号と合流します。
 県道を北上すると烏川と交叉しますが、その橋の下に潜穴の取水口があり、県道から穴頭や狭間を望見することが出来ます。潜穴は、砂防ダムまで1000mほどで、ここから洞雲寺橋まで平堀です。なお、烏川の名称は砂鉄のため川が黒く見えるからとのことです。

【谷地森堰】
 田川にかかる河原橋を渡り、川沿いに南下すると谷地森堰があります。今は圃場整備が進み堀はオープンになっていますが江戸時代は500mの潜穴でした。『宮崎町史』によると「古い堰で、田川堰または六ケ村堰とも言われてました。取水口はしばしば変更している」とあります。

【鳥嶋堰】
 鳥嶋に大樹寺があり、近くに東山官衙遺跡があります。さらに200m進むと、左側に「水無尽」と刻まれた昭和43年建立の記念碑があり、碑文によると、明治45年に着工、大正2年に完成しています。延長350間、工費2300円、水田8反を干拓造成したとありました。この碑の下に穴尻があります。

1 鳴瀬川水系
 鳴瀬川は舟形山系の水を集めて太平洋に注ぐ、宮城県内の三大河川の一つです。その上流加美町の潜穴群をこれから探訪することにしましょう。その前に加美町文化財保護審議会委員渡邊哲さんの「新田開発と原堰の開削史」(講演配布資料)をたよりに、暗闇の穴の中をのぞいてみましょう。中を明るくするために松明(タイマツ)に火をともします。松明は「明かしたけ」「ともし竹」ともいい、篠竹を束ねて作ります。壁面にくぼみがあり、粘土で固定したようです(箱根用水の例)。火床(ヒドコ)と言います。
《潜穴内の測量 測量の断面図 火床後》

   トンネルの入り口を穴頭(アナガシラ)、出口を穴尻といい、配付資料 によると、原堰は穴頭から穴尻まで1,800mでその間に狭間が15ヶ所あります。狭間というのは崖から奥に横穴を掘り、奥でつないで水路を造ります。作業中は土砂を運び出したり、松明の煙出し(=酸欠防止)、完成後は水量調節に使います。写真を見ると三人の調査員が横並びになっていますが、少し大きめのようです。多くは腰をかがめて、横幅は両肘をはった程度です。  


【原堰】
 最初の「鎌田大明神」碑を見て下さい。この建碑は昭和5年です。岩手県胆沢町の二ノ台にやはり昭和4年に建てた「報恩反始」の碑が建っています。昭和に入って2年と4年は大干ばつでした。両地域共に河川から取水をして潜穴によって導き潅漑していたので大豊作でした。その時の感謝の気持ちが建碑につながったのでしょう。二ノ台堰を成功させたのも鎌田善内(原堰の善内はその子)です。
 宮城交通バス停小瀬のそばを原堰が流れています。道端に平成6年に建てられた記念碑があり、次のように刻まれています。(以下略) 

原堰は伊達四代藩主綱村公の命により、普請奉行鎌田景泰が寛文十年(1670)から延宝八年(1680)まで十年余の歳月をかけて築造し当時の荒撫地を水田豊穣の地とした

とあります。まさに藩営プロジェクトです。ただ碑文に「鎌田景泰が寛文十年」とあり、鎌田大明神碑のある「神明宮社」の嘉永3年の幟には「景泰敬書」とあり、同姓同名なのでしょうか。念のために坂田啓編『私本 仙台藩士事典』にある善内の「延宝書上」を引用しておきます。

本人曾祖父孫九郎幼少の時分、輝宗代浪人にて米沢より宮城に参り、祖父九右衛門まで浪人、本人親善内、無進退(無身代)にて普請方御用二二・三年勤仕、万治四年二両四人新賜、又伊達上野(水沢伊達)、胆沢郡宇和野村新田取立の折り善内普請方頼まれ、同一二年上野より八五三文を受け、又加美郡小野田御藏御新田普請方を善内が勤め、首尾が良かったので、新田起の内一貫弐六二文を延宝三年拝領、都合三貫一四九文に両四人となる

 文中に仙台藩独特の言葉がありますので、解説をしておきましょう。「都合3貫149文」とあります。1貫は石高で10石で10石の米が生産される土地のことです。「二両四人」とある四人は四人扶持のことで一人扶持は米で支給される禄米で、一日3合、一年1石8斗です。「小野田藏新田」とありますが原本の「延宝の書上」には「御藏御新田」とありますので蔵入地(藩直轄領)のことです。
 原堰の穴頭の上に立つと対岸に松島・塩竃方面に給水する取水口が見えます。穴尻には「原幹線用水路」の表示があります。蝉堰が旧宮崎まちへの用水で、原堰は小野田町への用水です。
【蝉堰】
 原堰の取水口から600m下流に蝉堰の取水口があります。一番古い取水口は古水戸で、この付近は川幅が最も狭く「セミツ淵」と呼ばれ、現在の取水口には大正10年と刻まれ、穴尻まで1080mあります。
 『宮崎町史』によると「石母田長門永頼時代、万治より寛文(1658〜70)にかけての10年間、老臣海老田蔵人、検断佐藤惣兵衛の功」と記されています。石母田氏が岩ヶ崎から宮崎に転封になるのが承応元年(1652)、永頼の時で知行高6500石のうち40パーセントが宮崎村・隣村に集中しています。この時期は仙台藩で一番新田開発の盛んな時です。
 穴尻から川向かいに薬莱温泉が見え、蝉堰に並行して八ヶ村堰が通水しています。ここから宮崎町までは平堀ですが、かって神明社のある丘は潜っていたと言います。国道345号を越えてからはほぼ蝉堰と並行して矢倉で合流します。ここはかっては立体交差をしていました。 

《原堰・蝉堰が立体交差 合流した蝉堰 台ノ原丘陵を迂回する蝉堰》

   矢倉の地名は櫓から変わったのでしょう。これは目の前の台の原丘陵に風穴をあけ通水するために櫓を組んだのでしょう。仙台市泉区の永野治左衛門さんの話しを聞いてみましょう。

測量するために出口と入り口に竹竿を立て、その間の木を切り倒して見通しを良くして縄を張る。こうして距離と方向が決まる。方向を決めるには磁石を使った。坑口の位置と高さを決めるのは勘である。山を削り、坑口を作る。坑口でどの方向に掘り進めるかを磁石できめる。(以下略)

地元では平堀が丘陵の裾を迂回するために提灯測量をするための櫓と伝えていますが、私はトンネルを作るための見通す櫓ではないかと思います。しかし実現しませんでした。凝灰岩は水分を含むと石のよう固いのですが、水分がなくなると落雁のようになります。丘陵の土質ではないでしょうか。
 舌状台地の先端に「縁切り地蔵尊」があります。由来は台ノ原丘陵の通水は難工事で、棟梁の海老田新蔵人は次男喜七郎を人柱にたてたと伝えています。この地蔵尊は贅沢を遠慮するようにと「遠慮地蔵」、また若くして死んだ喜七郎の霊前を婚礼の行列が通れば縁が切れるということから「縁切り地蔵」とも呼ばれています。
【八ヶ村堰】
 八ヶ村堰は小野田本郷・小泉村、本郷の東端である小瀬・原町・上野目・長清水・味ヶ袋・芋沢の八ヶ村の入会用水です。道の脇を流れる原堰から崖面を下りて行くと石垣のある蝉堰が流れており、さらに下りると八ヶ村堰の穴頭に到達します。ここからは原堰・蝉堰・八ヶ村堰が200mほど並行して崖面を流れています。
【足水堰】
 県道347号西上野目から鳴瀬川堤防に出ますと足水堰があり、明治末年に造成されました。穴尻は東上野目農道の脇にあり、水田の下をヒューム管で通水しています。
【照井堰・掃止堰】
 名称の起こりは、近くに照井太郎の伝説のある照井塚があることによります。「小野田本郷安永風土記」には堰元は上野目で小野田本郷および同上野目・鹿原の三ヶ所の入会用水とあります。
 東上野目バス停の南に水沼橋があり、橋の上から穴頭が見えます。穴頭は大宮神社の南西200mにあり、取水口から500mの平堀で導かれています。大宮神社は薬莱山の山頂にある薬莱神社の郷宮で、江戸時代は羽黒派修験の拠点でした。さらに鹿原橋を渡らずに東に進むと道路脇に穴頭が開口し、近くに国指定の重要文化財の松本家住宅があります。その脇を通って鳴瀬川の堤防に向かうと穴尻があり、堤防に上がると掃止堰(ハキトメセキ)が見えます。

 

 

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