しばらく前にPTAの婦人団体から宮城県人の県民性について話をしてほしいという依頼がありました。その時のテーマは「記録にあらわれた県民性と県民歌」でした。県民歌というのは、宮城県でよく歌われている「さんさしぐれ」のことです。要点はその起源について知られているのは、伊達政宗が摺上原の戦いで勝利を収めたときの祝い歌と考えられていますが、それは間違いであるということを立証しました。私のホームページ「さんさしぐれ」をご覧ください。大槻文彦や毒舌家坂口安吾に愛された芸者さんの「おみっちゃん」(高橋みつ)の美声も聞くことができます。
先日、私の所属している宮城歴史教育研究会の忘年会のスピーチで、山形出身のM氏が「仙台は伊達政宗が築いた62万石の大藩にあぐらをかいている」、また仙台市史編纂室長は他の県の人から「仙台市は学都・軍都と言われているが県都論は出てこない?」と指摘されたと、なごやかな雰囲気で県民性が論じられました。また私が始めて教頭になったとき集めた資料「仙台市民読本」から引用してスピーチをしたところ好評だったこと、集めた資料は一回の講演に使用しただけなので記録としてホームページにと思いネットに載せることにしました。
宮城県の郷土研究・郷土教育は、大正デモクラシーの後をうけて昭和初頭に盛んとなりました。『北村郷土読本』が刊行され注目を集めたのが昭和3年で、『仙台郷土研究』の創刊号が昭和6年に発刊されています。この郷土研究の動きも満州事変に始まる15年戦争下の皇国史観に押しつぶされて、細々と命脈を保って敗戦を迎えました。
戦後は戦争中に発表できずに蓄積されてきた社会経済史研究が堰をきったように発表され、地方史研究が高まりました。その後、地方史は中央があっての地方という物差しの基準が中央におかれているという反省から、地域独自の文化を大切にする地域史という概念が使われるようになりました。最近は文化財という点からラインで結ばれ、面へと広がる地域起こしが盛んになっています。
東北は過去に何度か中央に服従した歴史があります。その一つは「蝦夷征伐」、その二は源頼朝による「奥州藤原氏討伐」、その三が豊臣秀吉の「奥羽仕置」きであり、四が「戊辰戦争」で賊軍という汚名を着せられました。
長州の桂太郎は「奥州の人心は有数の士を除くほかは、知識の程度が低いので誤解を生む」と言い「暖地の者は利発で、寒地の人は朴訥である。利発なる者が朴訥な者へ要求すれば誤解を生む原因である」とも言っています。かってサントリー社長が「東北熊襲」論を公にして物議をかもしたことがありますが、蝦夷と熊襲を取り違えたとはいへお粗末な発言をしたものです。
「日本書紀」の景行天皇二十七年紀に東国より帰った武内宿禰(タケノウチスクネ)の報告に次の条があります。
東国の中に日高見国があり、この国の人は身に入れ墨をして人となり勇敢である、これを蝦夷(エミシ)という、土地沃壌で広し、撃ちてとるべしまた景行天皇四十年紀に、日本武尊を東国に派遣する際に天皇は次のように蝦夷を説明しています。
夷(エビス)の中で蝦夷が最も強く、男女父子の間に節度も確立しておらず、冬は穴に、夏は巣に住む、毛皮を着、動物の血を飲む、矢を頭髪の中に入れ、刀を衣の中にはいている、攻撃すると草の中に隠れ、追うと山に逃げ込む、こうゆうわけだから未だ王化に従ったことがないよく蝦夷が野蛮であることについて、以上の史料が引用されます。蝦夷が竪穴住居に住む狩猟民であるとすれば、当時の蝦夷の実態としてこの史料はめくじらをたてる必要はないでしょう。都付近の竪穴住居は、山上憶良の「貧窮問答歌」(万葉集)にもあるように「直土(ヒタツチ)にわら解き敷きて、父母は枕の方に、妻子どもは足の方に囲み居て」と言う生活です。
天保元年(1830)生まれの薩摩藩士肝付兼武は、仙台藩には産物が少ないのは、衣服や資材をすべて他国から買い求めているので貧乏している。国が貧なる原因として「士民狡猾、自ら便宜をえらび、労を他に施す風がある。人々怠るををもって得たりとす。是その貧なる所以なり」と酷評しています。また国政も家臣が在郷に小外城を構えているため、藩主が英邁であっても孤立して「その志を助くる者なし」と藩政の弛緩を地方知行制に求めています。そして「ああ、予輩をして仙台を治めしめば、国を富ますること三年の内にてあらん、惜しいかな富饒の地にいて常に貧に苦しむこと」と「東北風談」に書きとめています。
産物のないことについて林子平上書には、御国は大国ながら世間へ流布するほどのものは一品もない。ただ江戸では仙台糒(ホシイイ)がもてはやされているが、これも仙台領からの出し物ではない。「とかく土産の多きは国の益となり、土産の少なきは国の損にてござ候」と述べています。
地方知行制については、南部藩士那珂梧楼も「都の苞」に仙台藩は伊達安芸の家だけで四千の家来を持っており、兵数は多いが文武の道を怠っていると指摘しています。そして「藩下に居城を持つ高臣同志は己を持して孤立し、あたかも外国の如く、その間に何の連絡もなく、心を合わせて藩侯のためにはかることがない。地の利は人の和にしかずという最も大切なるものを欠いている」と仙台人がお互いの足を引っぱりあうのは、政宗以来の地方知行にあると言っています。
仙台藩の大国ぶり、殊に米所仙台が仙台人の気質をつくりだしたと解く人は多いようです。大国ぶりについては、天保年間に仙台藩を訪れた日向飫肥藩士安井息軒は、仙台藩の実高を200万石とし、「東潜夫論」を著した帆足万里は、250万石と見積もっています。実際は天保郷帳(幕府への提出資料)の99万2000石が文献上の数字でしょう。
水戸の住人で多くの往来物を書いた戯作(ゲサク)文学者燕石齋薄炭(エンセキサイウスズミ)が、水戸から松島までの道中を東海道膝栗毛よろしく書き綴った『三々時雨 歌の陸奥』(サンサシグレウタノミチノク)があります。その中に次の場面があります。仙台者を泊めると飯代ばかりでも割にあわねえと宿の主人が言うので、鉄さん(旅は三人連れ)が何故と聞くと、宿の主人は「二百文の旅籠代で、飯ばかり十四、五杯づつ二度食われると三十杯になる。一升ではたりない、なんぼ米が安い国だからといってもあんまりな喰いようだ、他所の人は仙台者というと飯ばかり食ってあわぬからよせ」とぼやいています。伊達政宗の国づくりは、新田開発に始まり大国の基礎をつくりあげました。
このことは「仙台風(センダイブリ)」という史料にも描かれています。この史料は明和から天明の頃の世相を、京都・大坂と比較しながら書いたものです。江戸時代の仙台人の気質を知る最高の史料でしょう。前述の大飯食いについて「仙台は米大いに安くして食べ物に冨たる所なれば、さまざま働かずして、怠りながら流し渡り住む者多し」とあります。
この「仙台風」は『日本庶民生活史料集成9』に収録されていますので、その中から仙台人気質を描いた箇所を摘録してみましょう。手厳しく仙台人の短所を描いています。
「生まれつき口きたなく、尤も大酒を好む也、甚だしきは、ていよき魚を見て、忽ち着るものを脱いで質に入れ、その銭で買い食う」と大酒美食の風のあることを指摘しています。また「借りたる物を返し、人の為をしてやる者を(律義者)をあほうと笑い、人を突きはめる(だます)、手前勝手(自分勝手)する者を利口とほめ」、ひつらこい(悪がしこい)を発明と心得」、「世間の見てくれ(世間てい)ばかりを勤めて」と痛い所をついています。また人材不足について「此の国の学者なきは、人小利口のゆえなるべし」、「此の国に分限者少なし、人ひすらこきゆへなるべし」と決めつけています。
随分と手きびしいが、仙台女の魅力にも触れています。「髪結ふに日半(ヒナカ)もかかり、この国の女は味がよいと自慢する男もある、内証のことなればいかにや知らず、なるほど生肴沢山に取り込んで、油つよい女なれば」と京女と比較しており、内証なればわからないとも言っています。
一関藩士の子に生まれ、大正初年まで有能な官吏として業績を残した山田揆一は「仙台物産沿革」(大正6年)を著しています。その中で宮城県民性を次のように記しています。物産の発達についてみると、全国レベルで奥羽六県は遜色があり、その中で宮城県は著しい。その理由は、本県人は物産開発の力に乏しい。古くから沃土の民は不在というがその通りであろう。この因習は旧藩時代からのであると、その後進性を仙台藩の五貫文制や地方知行制に求めています。五貫文制とは石高にして50石以上の米が収穫できる土地のことです。
明治9年には明治天皇が東北地方を巡幸されました。その時天皇に宮城県権令宮城時亮が「宮城県風土民族の概況」を奏上しています。そのなかで宮城県は広く、土地は肥沃であるが「勉強進取ノ気力ニ乏シク、頑然自ヲ鄙陋ニ安ンジ、復タ富強ノ威アルヲ知ラズ」と述べています。また「本県ノ人民ハ固陋ニシテ、進取ノ気象少ナク、怠惰ニシテ忍耐ノ精神乏シ」というが、これは皮相の論で「ソノ実、朴直ニシテ、浮繰ノ状態ナク、質素ニシテ虚飾ノ風習ガナイ、ヨク薫陶スレバ将来性ガアル」と奏上しています(『明治天皇聖蹟志』)。
最後に『仙台市民読本』の「仙台人」を下記しておきましょう。
1 仙台人は質実剛健で勇敢であるが礼義に欠け、一般公衆に対する公共心は甚だ幼稚で、
他人の迷惑を考えず約束を守らない欠点がある
2 教育程度は一般に進んでいる。殊に女子の裁縫の進んでいるのは、他県人が驚く所であ
るが、ややもすると勤労を好まず、他人を支配しようとする風がある。
3 親類故旧にたいして情誼厚く、他人に対しても知人と否とにかかわらず親切を尽くすが、
共同団結の心がうすく、郷党相より相たすけて共存共栄の実をあげることに乏しく、成功
者をねたみ、これを中傷する風がある。又、後進者を指導啓発して向上させてやろうとい
う気風に欠けていっる。
4 物事は控え目で、伝統や古い習慣になずみがちで、排他的思想強く、自分から積極的に
物事をやろうという進取的の気象に乏しい欠点がある。
5 寡言で謹直で義理固いところはあるが、愛想がなく社交性に乏しい。その結果商業が下
手なことは、仙台で成功した商人の多くが他県人であるのをみてもうなずける。
6 沈着でのんびりしているのは美点であるが、その反面、物事に無頓着で時間の観念がな
く、諸人から仙台時間と称されている。
7 言葉が悪く、昔から東北地方の言葉を仙台弁、又は東北ズーズー弁といわれ、方言が多
く、誤った言葉使いや不正音が多分に用いられている。
( 宮城県古文書を読む会『会報』15参照 宮城県図書館蔵)
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