七ヶ宿街道 (その3) 湖底に沈んだ村

1 七ヶ宿ダム建設

 宮城県で最大で、最後と言われる七ヶ宿ダムは、治水と利水の多目的ダムです。貯水量は鳴子ダムや釜房ダムのの約2倍といわれています。ダム工事は昭和56年に始められ、平成3年に竣工式を行い、渡瀬・原・追見(オッケン)の3集落、158戸の人々がこの地を離れることになりました。
 ダムの高さは93mのコア型ロックヒル形式のダムです。ロックヒル゙ダムを『広辞苑』で引いてみますと、「ダムの一型式で、主として岩石を積み重ねてつくるもの、内部には遮蔽壁を設けて水もれを防ぐ」とあります。
 このことについて原集落出身の「森の名手 名人一00人 宮城県代表佐藤石太郎」著の『ダム湖に沈んだ 山村の知恵』の「ダム断面図」を下図に入れましょう。

《ダム断面図 著書『ダム湖に沈んだ 山村の知恵』 炭焼名人佐藤石太郎さん》

     外側の岩石(ロック)は有矢山から転げ落としてダンプで運びました。ダムに面した国道113号に道の駅「七ヶ宿」があり、有矢山が遠望されますので有矢館にまつわる伝説とともにダムの堤防を思い出して下さい。現在のダムサイトの表面にあらわれています。フイルター材・コア材は追見の長崎平で採掘しています。コア材について石太郎さんは、炭焼窯に使うような粘土と思っていましたが、粘土は水で溶けてしまうので、小石や砂混じりの土を敲きしめるとの説明に首をかしげたことが『山村の知恵』に記されています。


《奥州街道を桑折宿で分かれた七ヶ宿街道の道筋》

2 七ヶ宿谷の玄関口 材木岩と虎岩

 七ヶ宿街道(羽州街道)は、福島県桑折で奥州街道と分かれ、小坂峠を越えると仙台領に入り、最初の宿場が上戸沢です。ここには境目番所があり、番所の向かい隣りに検断・問屋木村家がありましたが、材木岩公園に移築復元され、観光客で賑わっています。
 上図の右上の「ダム前の谷間」の写真は、虎岩の上から職人肌の故菅野兼吉さんが七ヶ宿に想いをこめて撮った写真です。眼下に岩本橋が見え、西に渡瀬、原、追見と続き、今回の主題である「湖底に沈んだ村」の舞台です。岩本橋の付近がダムサイトの中心とのことです。
 もう一度上図の「材木岩公園」Dの写真を見て下さい。遠くに見える右側が材木岩で、左が虎岩です。この峡谷を白石川が流れ、上流湯原宿までの七ヶ宿谷の玄関口になっています。この峡谷を出たところに高さ93mのダムが造成され、渡瀬村がすっぽり水没しました。ちなみに「安永の風土記書出」を見ますと関宿と渡瀬宿の距離は2里とあります。昔から多くの旅人が名勝材木岩の前でこの壮大な眺めに目を見張っています。このことは「七ヶ宿街道 その1」の「享保大地震」で触れていますがもう一度思い起こしてみることにします。最初の材木岩の写真は昭和26年頃の写真とのことです。左の上に住宅のある丘陵は今はありません(『宮城県史23』の口絵)。

《材木岩 享保16年地震で虎岩から落下した巨岩(推定) 飛不動跡地》

   【享保大地震】 材木岩公園」の噴水の笠石は宮城沖地震で落下した巨岩Dです。次のカラー写真でメガホンを持って虎岩を指さして、享保16年地震で落ちてきた岩がこれですと説明しています(説明者は私です)。さらにダムサイトの方に進むと「飛不動尊跡地」の碑が立っています。そばにある「飛不動尊堂跡地」の説明板に

ご由来記によると天正十九年(1591)、仙台藩主伊達政宗公が羽州置賜郡小松村より、この霊地に不動明王を創建され、武運長久、藩内安全、天下泰平を祈念する。野火の為お堂焼失の際本尊不動明王は後方虎岩三十丈余りの高き岩窟に飛んで難を避け無事であることから御霊験を称え飛不動明王と尊崇され、大勢の参詣者を得た。
 現在、飛不動尊堂は旧七ヶ宿街道江志峠の後方、これより約1,5キロ)に鎮座し災難よけ、家内安全の祈願者が絶えず訪れている  別当 清光寺

 とあります。「お国替え絵巻」を書いた音羽子は、虎岩新道にかかった時のことを次のように書いています。

新峠にかかる、上には飛不動あり、下は材木岩、いかにも材木を立てならべたるごとく也、下は古道の由、地震にて崩れしゆえ、不動尊は上へ飛び給えしとなん、下の方は危なき故、今は上の方を通るといえり

と書き記しています。また安永の「小原村風土記」の「四寸道脇 飛不動跡」には  

右不動堂享保十六年九月地震以前は、材木岩の大岩下に立っていました。同月七日夜大地震の節、御堂の後の大岩崩落、往還通用も出来なくなり、享保十九年往還道脇に引移り候こと

とあります。「往還道脇」というのが現在の飛不動でしょう。地震前の飛不動から材木岩公園への道は、私はまだ歩いていませんが、聞くところによるとあったということですので、地震以前の旅人は飛不動からこの旧道を下り、材木岩の景観をじっくり観賞して白石川の浅瀬を渡り渡瀬宿にはいりました。渡瀬は「わたるせ」と言っていました。

《地震前の旧道 飛不動尊 浅瀬》

   材木岩の崩落によって羽州街道が通行止めとなり、関村の肝入勘兵衛が中心となり、山中通りおよび最上山形松原までの肝入・検断たちは「新道を造ったので、従来通り小坂越えの道を通って欲しい」と幕府に願い出て実現し,この後は、江戸時代を通して参勤交代・三山詣など往還で賑わいました。

《ダム建設以前の虎岩への道 虎岩頂上にある山の神碑 もと柴山茶屋の欅と巨石》
 
《万蔵稲荷風穴絵馬 虎岩から途中の風穴 材木岩・江志峠の図(鶴岡市郷土資料館藏》

   虎岩新道を下りて渡瀬に向かうことにします。ここではダム造成以前の道ということになります。途中に「風穴」(フウケツ)があり、高山植物が分布していました。風穴を『広辞苑』で引きますと「山腹・渓間・崖脚などにあって夏季、冷たい風を吹き出す洞窟」とあり、蚕種の貯蔵に利用されていました。小原の材木岩公園で体験できます。風穴を過ぎると間もなく岩本橋を渡って渡瀬宿に入ります。音羽子の描いた虎岩新道には橋が架かっていますが、渡瀬は早くから「わたるせ」と言っていたのではじめは浅瀬を渡ったのでしょう。参勤交代の道は岩本橋の下流20mほどで、現在ダムサイトの真ん中になっています。

ふるさとの碑

 「ふるさとの碑」は、今は七ヶ宿ダムの湖底に沈む渡瀬・原・追見の3地区を忍び、七ヶ宿ダム竣工を記念し建立されました。
 ダム建設以前の湖底には、渡瀬55戸、原50戸、追見53戸、計158戸、637人の人々が生活しておりました。「ふるさとの森」から静かな湖面を見下ろすと藩政時代「奥州山中七ヶ宿街道」と呼称され宿駅の面影を残す落ち着いた家並が想い出されます。
 「ふるさとの碑」の裏面には、七ヶ宿ダムの建設に伴い移転された方々のお名前が刻まれています。

3 湖底に沈んだ渡瀬・原・追見を忍ぶ

 これから水没した渡瀬・原・追見の三集落を訪ねるわけですが、資料として昭和56年発行の東北大学佐藤巧教授の編著『ダム下に沈む 七ヶ宿街道集落の調査記録』、この「七ヶ宿町文化財調査報告書 第3集」の編集から発行まで、東北地方建設局七ヶ宿ダム工事事務所の協力がありました。  その2として東陽写場が撮りためた写真を編集した『ふるさと七ヶ宿 七ヶ宿ダム移転者思い出写真集』があります。
 また元東北大学竹内利美教授を中心としたスタッフの昭和48年度民俗資料緊急調査報告『山中七ヶ宿の民俗』があります。私の白石高校七ヶ宿分校の赴任と重なり、お手伝いをしました。その時、生徒と一緒に歩き撮った写真は「水と歴史お館に寄贈されています。
 このほか歴史と民俗の里でもある七ヶ宿には著名な写真家や、画家が多く来村し作品を残しています。このほか「水と歴史の館」の企画展の資料などがあります。
 なお七ヶ宿町の長下地区に瀬見原住宅を造成し、水没地区お17戸居住され、渡瀬にあった熊野神社もこの地区に遷座しました。瀬見原とは渡瀬の瀬、追見の見、原集落の原をとって名付けられました。

《湖底に沈む三集落》

渡瀬宿
 渡瀬は慶長5年(1600)「もう一つの関ヶ原」(七ヶ宿街道 1)でふれましたが、小原・渡瀬・関・滑津・湯原の5ヶ村の野伏 が仙台藩の重臣茂庭綱元の湯原攻めに加勢しています。その中の渡瀬分に古山与五右衛門・古山藤六・古山与三郎・齋主計助久八の名があります。
その子孫が藩政時代に長く肝入・検断を勤めた古山家です。やがて七ヶ宿ダムの湖底に沈むので古山家を中心とした古山全一・郁夫・幸平著の『わたらせーーふるさと湖底に沈むーー』があります。しみじみ移転される方々の気持ちの溢れた本です。
 この本の「渡瀬村」を、集めた写真や私見を交えながらたどってみることにします。
 次からの集落景観の住宅は佐藤巧教授の建築学上の見地から選ばれた家屋を、『ふるさと七ヶ宿』のカラー写真と置き換え掲げました。


《渡瀬町景観》


《熊野神社移転 渡瀬町景観》

 岩本橋を渡り「切通し」を過ぎると、間もなくかっての宿場町であった渡瀬です。「安永風土記」に名石として「地蔵岩」が紹介され、もとのお地蔵さん二体並んで立っていたように見えたのが享保の地震で崩落し、今は一体が残っているとあります。また大正14年8月には渡瀬発電所が竣工しています。矢立の取り入れ口から発電所までは白石川の右岸の山の中をトンネルで引水しました。

《切り通し 地蔵岩 渡瀬発電所》

  町の中央右手には旅人宿の看板を掲げた大きな茅葺きの家が目につき宿場の面影を伝えています。この家が「こうじ屋」で、私の祖母「たま」の生家です。更に4軒ほど先の左側に茅葺きの高い屋根の大きな家が私の生家「会社」です。
【陸運会社】 [会社」という屋号で呼ばれている家があちこちにありますが、「会社」とは「陸運会社」のことです。『わたらせ』の記録に耳を傾けてみましょう。

 江戸幕府によって整備された人馬継立機構は、明治5年8月30日に伝馬所、助郷(仙台藩では加人馬)の廃止によって終わりを告げ、明治5年の相対賃銭(アイタイチンセン)を建前とする陸運会社が設立されることになった。
 陸運会社は旧肝入・検断がこの仕事にあたったので、名前は変わっても中身は変わらなかった。幸作も明治5年4月、会社請負人となって、この仕事に従事 した。

 陸運会社は明治8年に陸運元会社、内国通運を経て現在の日本通運株式会社へと衣替えをしていきます。

【木食上人】 渡瀬宿の西はずれに火の見櫓が見えますが、この西隣に真言宗養源寺跡があります。延文年中(1356〜1360)の中興で伊具郡角田安養寺の末寺です。
 この寺跡に文政12年(1829)の「木食上人輪海」碑がありました。木食行とは五穀を断ち、十穀断ちをして、木の実や草の根を食べ(ソバはよかったようです)、千日以上の木食行を続け、体の脂肪分をとり、息つき竹だけを出し土中の石室に入り、鉦(カネ)をたたき読経をしながら命を絶ち、3年3ヶ月後に掘り出されてミイラとなった体に衣を着せ、即身仏として祀られます。白石市上戸沢の万蔵稲荷にも即身仏(ミイラ)があったと伝えていますが今はありません。輪海上人の碑は、道の駅「七ヶ宿(ありや)」出て右の小径を登っていくとあります。
【中堰】 再び中堰・継立に関しての『わたらせ』の記事の要約を続けます。「当時の道幅は約2間、真ん中に一本堀があって角屋の所で曲がっていた」と記されています。このように宿場の入り口や中央で鍵型に曲がっているのを「枡形」といっています。この堀には清水が流れ、防火用水・除雪や米・野菜・器物を洗うのに利用されていました。明治16年に道路の改修が行われ、堀も道の両側にわけて流されるようになり、家々の前には「カワバタ」を設けて利用していました。前の図の麹屋の前に堀がみえます。

《木食上人輪海碑 カワバタ 明治21年宮崎町の中堰》

    【駄賃】 「渡瀬村安永風土記」に関から渡瀬までの距離は2里で「一本荷 八十文 一軽尻 五十三文 一賃夫 四十文」とあります。本荷とは馬に40貫目(150s)まで、軽尻は人が乗って手回りの荷物5貫目(20s)まで積むことが出来、賃夫は人足のことで一人5貫目のきまりです。従って関〜渡瀬間が2里ですので本荷は1里40文ということになります。これは「御定賃銭」といって参勤交代などの公用の場合で、庶民が利用するのは「相対賃銭」で七ヶ宿街道の場合は「お定賃銭」の3倍のようです。
 なお「文」(銭)とか「両」(金貨)といってもピンときませんので関村の「念仏講帳」に米1石(150s)=1両=銭6000文の書き込みがありますので、この公式で計算すると10sを4000円ととして1文は10円となります。10sが4000円というのは20年以上前の価格です。米価は下がっていますね。

【宿村送り】 交通関係が続きましたので、もう一つ渡瀬・関の間で起こった事件を紹介することにしましょう。文化6年(1809)5月29日、栃木県大田原市の深田村から羽州藤塚村(酒田市)に向かう病人伊八が危篤状態で渡瀬宿に運びこまれました。仮検断平八はすぐ次の宿場である関に送り継ぎました。関宿の仮検断冨三郎は「領主の添え状がないので受け継ぐわけにはいかない」と受付なっかったので、伊八を乗せた駕籠は再び渡瀬に送り返され、下戸沢ー上戸沢と同じ理由でとうとう桑折宿で息が絶えてしまいました。
 このことを重視した桑折代官所は、このことを幕府に報告しました。その結果、関及び渡瀬の検断・組頭は江戸に呼び出され勘定奉行の吟味を受け「宿村送りの伊八を添え書がないだけで、吟味もせず送り返したのは不届きである」とのことで関町検断には「過料」(罰金)3貫文、渡瀬検断は「急度(きっと)叱り」(厳重注意)、組頭は「御叱り」でした。
 旅人が旅先で重い病になったとき、旅籠の亭主は医者に診せ看病しなければならないし、病人が故郷の水を飲みたいと望んだら、宿場の責任で次の宿場に継ぎ送り、死亡すれば宿場の責任で埋葬します。これらの経費はすべて村負担となります。宿場にとって病人の旅人は招かれざる客で、次の宿場に送り出したとき胸をなで下ろしている村役人の様子が目に浮かぶようです。このように送り継ぐことを「宿村送り」といい、江戸時代の社会保障制度と言えるかも知れません。

原の集落
  『山村の知恵』に「原八軒」というを昔からの言い伝えがありますと記しています。このこといついて私なりに考えてみたいと思います。
 渡瀬に九代政宗以来この地域に住み着いていたことについては前にふれました。この人たちは複合大家族で自衛のために武装し野伏と言われていました。
 仙台藩の一般的農村の流れとして、寛文期(1661〜1672)まで新田開発が盛んとなり、大家族は分裂し単婚家族を核とする農業経営に変わります。いわゆる年貢を負担する本百姓です。「原八軒」はこの流れの中で渡瀬から分家した八軒が原新田の草分け百姓として開発の中心になったと考えられます。
 湯原村に間宿(アイノシュク)干蒲があり、この干蒲新田を開発したのが野伏斎藤筑前す。驚いたことに嘉永3年(1850)の人別改帳を見ますと組頭の家の家族数が48人、一戸平均21人です。
 正保2年(1645)に仙台藩が幕府に提出した村高を記載した「郷帳」があります。これは仙台藩の行った寛永検地の結果が記載されています。「渡瀬宿 田120石 畑50石 計170 雑木立」とあります。追見のことを「楢木新田」と言いますのは雑木を伐採して新田を造成したのでしょう。



《原集落景観》

 


《森の中の清水の図 川坂稲荷神社》



《原集落》

【炭焼】 七ヶ宿の歴史を端的に表現しますと、江戸時代は宿駅制度が整備され往還で賑わいました。明治新政府は交通の近代化を進め、明治20年には東北線、同32年に奥羽線が開通すると七ヶ宿街道の賑わいはなくなりました。村民は生活の糧(カテ)を木炭の生産に求め、木炭王国を築き上げました。しかし昭和30年代の高度成長にともないプロパンガスの普及によって木炭生産は激減して、過疎の町となりました。平成22年の4月の河北新報は人口1744人と報じています。
 この木炭生産の牽引的役割を果たしたのが、原出身の佐藤石太郎さんです。『山村の知恵』の「炭焼きの周辺」の前口上で「大正10年生まれの私は16才から50才近くまでお30年間、ほとんど専業として炭焼をやってきました」と書き始めています。
 100ページを越す「炭焼きあれこれ」の「伊達馬」を紹介しましょう。

伊達馬とは、私の小さい頃、福島県伊達郡藤田町、桑折町方面から馬を引いて炭買いに来る人たちのことを言った。数頭から多いときは十頭近くの馬が原に通ってきた。(中略)
 昼食後、馬に炭を積んだ。片側に二俵うずつの計四俵で、五十貫近い重さだった。この伊達馬に積みやすくするために、渡瀬と原の炭は横俵で、時代が小俵になってからも大俵(八貫)だった。

とあります。炭の種類に白炭・黒炭・鍛冶炭があり、渡瀬・原は固くて火持ちのよい白炭で、湯原方面は黒炭です。そういえば七ヶ宿街道の文化圏は関を境にして違っています。

《石窯造り 窯口石を立てて一服する佐藤石太郎さん ほのほ》

   滑津から西は「1里1尺」と言われ、1里西に進めば積雪が1尺増すという豪雪地帯を語る言葉です。私は昭和48年に七ヶ宿分校にいましたが、文化財保護委員の武蔵武吉さんのお通夜に行ったとき道は軒先で、明日は雪を6尺掘って埋葬と話していました。
 分校の給食は高畠から運ばれ、私の下宿は「仙台屋」という魚屋さんで、徒歩で小坂峠を越えて桑折で仕入れたお話をよく聞きました。西の「藏かけ」、米沢からの万年塔や方言なども山形県からの文化と福島県からの影響が交錯しています。
《昭和48年関の積雪 藏掛け(横川) 万年塔(稲子)》

   仙台屋の前から西の方をスケッチした年賀状の版画です。横川は稲子から横川に定住した木地師の集落です。米沢・高畠でよく目にする万年塔です。

追見集落
 追見集落は、角田の石川公の街道警備の足軽集落です。山田音羽子「お国替え絵巻」には「関やら楢木新田やら、うろんになり侍り」とあり、関や追見は記憶にないとあります。楢木新田は追見新田のことです。楢木を伐採して新田を切り開いたのでしょう。
 「石川一千年史」の巻末に「石川家々中知行割」があり、「御足軽 湯原(10人)」「御足軽 追見新田(30人)」「御足軽 横川(25人)」の知行高が記されています。稲子=湯原足軽と横川足軽の知行高はまちまちですが、追見足軽の場合、小頭古山谷治(648文)・渡邊周助(818文)を除いて各戸300文です。
 仙台藩の貫文制は1貫文=10石で、米10石生産される土地のことですので、300文は3斗ということになります。勿論、年貢は石川公に納めます。


《追見集落景観》



《追見集落景観》




横川橋たもとのお地蔵さん
 水没地区の入り口を材木岩周辺から始めましたので、終わりは再び陸に上がって横川橋周辺で閉めようと思います。横川橋からの不忘山の美しい景色を眺め、「賽の河原」・「お地蔵さん」や「傾城森」・「下女が森」などの伝説を思い浮かべてみることにしましょう。
 目の前の横川は「賽の河原」と言われてきました。「賽の河原」は子供が死んでから苦しみを受ける三途の川のことです。石を拾って父母の供養のために塔を造ろうとすると鬼がきて壊すと地蔵菩薩がきて救うという河原です。
 七ヶ宿では、人が死んでその死んだ人が悲しいときには泣き声が聞こえ、嬉しいときには笑い声が聞こえ、足跡が残ると伝えられています。
 近くに明和2年(1765)の線刻のお地蔵さんが立っています。昔、秋田の子供を次々に亡くした殿様がいました。殿様の一番の家来が江戸に向かう途中、たまたまこの河原にさしかかると3〜4人の子供が河原を走ってきてお侍の袂にすがりついて道中無事であるようにと言いました。そのお侍は後に家来をさし向けて賽の河原にお地蔵様を建ててその子供たちを供養したとのことです。「お国替え絵巻」にはつぎのように書かれています。


これより賽の河原に至る、此所は秋田の御飛脚宿にて女房子をなくしたたのに此河原にて逢いたるよし、それゆへ此所に地蔵尊を建てたる由承けりぬ

 「お国替え絵巻」は立像が描かれていますが、現在あるのは、お地蔵さんに子供がすがっている線刻地蔵尊碑です。

《横川橋より不忘山を望む 賽の河原地蔵尊(「お国替え絵巻」より) 》

 
《賽の河原 傾城森 》

     湯原の鏡清水を源とする白石川は東流し関を過ぎた所で、横川と合流して七ヶ宿ダムに流入しています。ここにお椀を伏せたような岩山が二つあり、この山を「傾城森」(ケイセイモリ)「下女が森」と言います。この山は江戸時代から観光名所で、懐に「巻懐食鏡」(虎の巻)に入れたグルメ作家富田伊之(コレユキ)は「奥州紀行」に次のように記しています。

小坂峠の間に飛不動、山伏の嶽、姫が嶽、下女が嶽、むかし此所に山伏、姫を連れ下女を供として此山にかくる。大勢の追人の者来たりければ、ぜひなく三人石になりたる也と、馬士の咄し申なり。なりにくき物になられたると笑ふ也。飛不動の前にて、大根の葉にしめじをしたたか入れて吸物一ぜん四文づつ、風味よろし (『日本庶民生活史料集成20』)

 馬子が馬上の客人に名所(ナドコロ)を説明している光景は、今の観光バスガイドを思わせるものがあります。

   

4 水没地区の画像拾遺 
  


《水没地区の油絵(「水と歴史の館」展示室より)》

《あとがき 》
   この「湖底に沈む村」は多くの方のご好意によって、ここまで続けてきました。この後も「水と歴史の館」の資料をもとに続けていきたいと思います。  なお、この「湖底に沈んだ村」をご覧になった方で、お手元にある写真や情報を「水と歴史の館」に届けていただければ幸いです。またこれを契機に七ヶ宿の歴史に関心を持たれた方は「館」を核として歴史を保存し、記録に残すよう輪を広げてほしいと思います。このシリーズがダムに投ぜられた小石の波紋がひろがることを願ってやみません。

 


 

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