佐沼西郡街道

【はじめに】

 奥州街道高清水宿から東へ進み瀬峰、佐沼への道を佐沼街道、 北上川に架かる錦桜橋を渡ったところが西郡(ニシコウリ)で、気仙浜街道津谷宿までを西郡街道 と言っています。ここでは奥州街道と気仙浜街道を結ぶ道として、「佐沼西郡街道」とすることにします。
 この道筋の佐沼と登米とは、旧葛西氏の拠点であり、周辺には葛西氏の家臣が城を構えていました。葛西大崎一揆における佐沼城の攻防はよく知られています。また狼河原森合城主の千葉土佐が、永禄元年(1558)、備中国から宇喜田秀家領の千松大八郎兄弟を招き、「どう屋」(製鉄)を開いた地域です。
 文禄3年(1594)、伊達政宗黒印状(下記)に「代物荷三十駄相違なく相送るべきものなり 文禄三年九月廿四日  みやさハ 高清水 さぬま にしこおり おいぬかわら すり沢 さるさわ 以上」とあります。高清水・佐沼・西郡・狼川原から黒印状は北に進み、大東町(一関市)摺沢から猿沢に延びています。
 この付近は東山と呼ばれ砂鉄山・金山が多く分布しており、慶長2年(1597)には、荒鉄1600貫を伊達政宗の居城岩出山へ伝馬80匹で、翌年は「大坂御軍用ならびに鉄砲地鉄」として2700貫を送っています。これらの地域はキリシタン信徒が多く、殉教者を出しています。


 

【高清水から瀬峰を経て佐沼へ】


   街道の起点高清水宿は、奥州街道の宿駅で、宿は本町・中町・新町と道の両側に町場が連なり、東側には高清水要害、家中屋敷が並んでいました。要害は亘理氏の後に伊達家一家5000石の石母田氏が宝暦7年(1757)から明治維新まで居住していました。石母田家には多くの古文書が受け継がれ、それらは東北歴史博物館に寄贈されています。
 下の写真の説明からスタートすることにします。平成21年6月6日に高清水で古代・中世遺跡の発掘調査の現地説明会の案内が「みやぎ街道交流会」の山屋事務局長代理からあり、かねがね高清水の東山道に関心がありましたのでご一緒しました。あいにくの雨でしたが、収穫は室内に展示してあった軒瓦でした。涌谷の黄金山神社の床下から発掘された瓦を思い出しました。説明会の資料には、「古代の瓦が出土していることから、周辺には古代の役所や寺院に伴う建物が存在していた可能性があります」と記されています。
 次の佐野丁は下の要害絵図の北端の道筋で真っ直ぐ行けば、下の佐沼街道入り口に通じていますので、厳密には奥州街道の分起点でしょう。
 善光寺の阿弥陀如来立像は、高さ154,3cmで全国最大で、鎌倉時代中期に造られています。高清水は県北一円に信仰された善光寺信仰の中心でした。
 要害屋敷総絵図の製作年代は、貞享5年(1688)で宮城県図書館所蔵。右端の瀬峰一里塚は、佐沼街道の坂を登り、寺沢を過ぎると間もなく対になっているのに出会います。
《高清水北甚六原遺跡(左上に軒瓦) 高清水町佐野丁 善光寺阿弥陀堂》

《高清水要害屋敷絵図(「高清水歴史絵図」より) 佐沼街道入り口 瀬峰一里塚》

 ここから藤沢で県道と交差しますが、旧道は右折しないで、崖を下りて瀬峰に向かいます。江戸時代の景観をとどめた旧道が800mほど続きます。
《瀬峰新町に続く旧道 八坂神社と移置された一宮月参供養碑 瀬峰元町)》

 瀬峰に入る手前に八坂神社があり、階段を登ると境内に明和9年(1772)の一宮月参供養碑が移置され、碑には「西高清水ミち 南田尻松山ミち」と刻まれています。
 瀬峰宿はL字型(枡形)で、元町・新町の二町からなり、元町の角近くに検券断屋敷跡、向かいに「役前」といわれた問屋場(継立所)があったといいます。宿はずれに庚申碑ほかの古碑群があり、町を出て瀬峰川を渡り、ほぼ県道と重なり東進しますと、南方町への道と佐沼へ分かれる十字路に出合います。
 佐沼への道を、左に長沼を見ながら稜線の上を佐沼へと向かいます。正保国絵図に描かれている「新田大沼」は、白鳥の飛来地として有名な伊豆沼のことです。長沼は、山ノ神から富永まで土手を築いて貯水した人造沼で、築造の年代は元和元年(1616)で6年をかけて完成しています。この用水溜池は、街道が通る丘陵の下をトンネル用水路(潜り穴・穴堰)で通水して新田高1834石が開発され、現在も使用されています。途中、古宿の八幡神社、天形にある津島神社の境内には興味をそそる多くの古碑があります。
 クルマを下りて当時の人々の米つくりの執念を肌で感じるのも一興でしょう。長沼潜穴群の最初に出合うのが「立戸潜穴」で説明板に「藩政時代の初期、現在の県道の下を掘りぬき、長沼の水を立戸前・船越前の既成田、南方(ミナミカタ)方面にまで引き入れて用水とした。いらい約三五0年間、用水路として今日なお利用されている」とあります。掲載の写真は立戸潜穴の穴尻ですが、取水口から100mあります。下の図で街道と潜り穴をセットとしてご理解をいただくために案内図を作成しました。なお、拙著『仙台領の潜り穴』があります。  蛇足になりますが、白虎隊が疲れきって弁天洞を潜って飯盛山にたどりついたことはよく知られています。近くの茶店で弁天洞についてのお話を、お聞きしたところ、なかほどに広い空間があるそうです。それは掘削のときの水平の誤差が幅を広くし、垂直の誤差が天井を高くした結果で、仙台領でもよくみられます。
 


   潜り穴で横道にそれましたが、再び佐沼街道に戻ることにします。山ノ上の石うち坂を過ぎますと、旧道は県道からはなれ、左の丘陵に入りますが、木立に囲まれた人家の間の道は、江戸時代の旧観をよく残しています。ここを過ぎたところに大念寺があり、宝暦7年(1757)の青面金剛童子碑に「東ハさのま 北ハわかやなき 西ハセミねまち」と刻まれていました。
 佐沼宿に入り、迫歴史民俗資料館に寄りますと、上舟丁にあった道標が迎えてくれました。碑面には「従是六丁半たかみ たいねん いしうじさか さん沼 首だん」、裏面に「従是みなみ佐沼 従是北若柳」とあります。
 資料館の向かいは佐沼城跡で、葛西大崎一揆の際に伊達政宗は城に立て篭もった一揆勢2500人を撫で斬りにし、遺体は大念寺近くに葬られ、首壇の碑が立っています。

【佐沼から西郡を経て狼河原へ】

 

   佐沼から西郡(ニシコウリ)への道は、県道につかずはなれず錦桜橋に向かい, 所々に旧観をとどめた道に出合います。錦桜橋を渡る前に足をとめてみましょう。出合って交差する道が一関街道で、右を見ると河川敷を区切るように北上川の堤防が続いています。これが登米伊達相模宗直が築いた相模土手で、築堤のために人柱となった「お鶴明神」が望見されます、北上川を渡る舟場は、錦桜橋より200m上流にあったといい、渡河すると伊達家一族1299石、家中48軒を抱える所拝領大内氏の在所です。
 西郡の町から国道346号に沿い、大谷野を経て丘陵麓に沿い二股川を右に見ながら狼河原宿(現登米市)に入ります。狼河原宿の「風土記書出」には家数297軒、馬数326匹、「道筋四筋」とあります。4筋とは@「米谷・西郡への道」A「馬籠・東山大籠村への道」B「東山藤沢町・黄海町への道」C「嵯峨立村への道」です。@は今までたどってきた道で、Aはこれからたどる道で、途中岩手県のキリシタンの里を通り抜け、馬籠宿を経て終点津谷への道です。Bは「はじめに」でみた伊達政宗黒印状の千厩方面、Cの嵯峨立への道というのは、西の物見峠を越える道でしょう。急坂のため今は使われていませんが国土地理院の地図の物見峠への道で、北上川につながっています。
 西郡街道の米川(ヨネカワ)および岩手県藤沢町大籠を中心とする地域は、キリシタン発祥の地、最後の殉教の地といわれており、「キリシタンの里」として多くの史跡があります。

【若草神社(煙草神社)】  狼河原の宿はずれの二股川に面した絶壁の上に葉煙草の生産と関係の深い若草神社があります。この神社は、天延3年(975)の創建と伝えられ、享保6年(1721)に多くの煙草生産を祈願して再興し、明治32年に煙草耕作者300余人の寄付によって再建され、煙草神社とも言われています。現在の社殿は昭和50年に新築されています。
 仙台藩の蘭学者大槻玄沢著の『?録』に「登米郡狼河原・鱒淵産のたばこは香りがよく、その当時の代表的な上質たばこの産地」と記しています。また大東町渋民の仙台藩儒学者で、「無刑録」を著した芦東山は、「上言」の中で煙草・楮・紙・紅花などを「耕作中に取りまぜ相励み」と副業を奨励しています。なお「たばこ研究 92号」に「東山地方の煙草と他領出について」、「同誌 96号」に「源貞氏耳袋の中の煙草情報四題」を報告してあります。
 また狼河原小学校代用教員の首藤清気喜先生が失明し、児童に手をひかれて急坂を登るとき崖下に転落し、目が見えるようになったという「壷坂霊験記」の現代版『開明坂ー暗闇の中の手記』を読むとき、教育の原点を知る思いです。若い教師にも読んでほしい本です。

 【三経塚】 狼河原から国道は右折しますが、真っ直ぐ北に向かうと、キリシタン殉教の地である三経塚があります。今までたどっててきた盛街道、今泉街道、気仙沼街道を含む地域には鉱山がたくさんありました。このような鉱山にはキリシタンが潜入する好都合の場所です。
 これから訪ねる岩手県の「キリシタンの里」は千葉土佐が備前から千松兄弟を招き製鉄の技術を移入したことにより、キリシタン潜入の場となり、三経塚は、これらキリシタを一網打尽に捕縛し、処刑をした殉教の地ともいえます。
 三経塚は、享保年間(1716〜36)のキリシタン弾圧の際の殉教者の遺体を「海無沢」「朴の沢」「老の沢」の三ヶ所に約40名ずつに教徒を分けて埋めた塚です。写真は海無沢の塚です。
 

《若草神社 開明坂(カバーより) 三経塚の海無沢の塚》

 
《後藤寿庵の碑 近くの石碑郡 地蔵の辻 》

 【後藤寿安の碑】 三経塚より狼河原に戻り、佐沼西郡街道に沿う国道を東進しますと、後藤寿安の史跡がありますので一見しましょう。
 後藤寿安は伊達政宗の知遇を得、胆沢郡水沢の福原に領地を与えられ、胆沢扇状地に寿安堰を構築します(HP「胆沢の穴堰」参照)。寿安は政宗からたびたび転宗を奨められますが拒否し、その後の消息は不明です。
 バス停西上沢から少し入った所に大きな碑には「後藤寿庵の墓」刻まれ、標柱には「後藤寿庵の碑」とあります。近くに石碑群があり、その石碑群の中に「天齢延寿庵主」と刻まれた石碑を当時の宮城県史編纂委員の方々が発見され、後藤寿庵の墓であろうとされましたが、その後の調査で誤りであることがわかりました。前述の大きな石碑は米川町で建てられた供養碑です。

【狼河原から馬籠を経て津谷へ】


 

 ここからの道は、国道と重なり、はなれながら東進岩手県藤沢町に入り、ほどなく宮城県本吉町に入ります。県境を越えると旧道は、国道を縫うようにして山沿いの林の中を進み、馬籠宿に入ります。

 【藤沢町キリシタン史跡と馬籠町の史料】  後藤寿庵碑から東進、県境を越えると藤沢町で、キリシタン史跡が多く、まさに「キリシタンの里」です。すぐ「二代千葉土佐の墓」に出合い、近くに「地蔵の辻」があります。ここは寛永16年(1639)に54人,翌17年94人、その他を含め300人の殉教者と伝えられ、処刑の役人が腰をかけて検死したという巨石が二股川の流れにあったといいます。寛政から文化年間に遺族たちが建てたお地蔵さんや供養碑が立ち並んでいます。
 初代千葉土佐はキリシタン大名で知られている宇喜田秀家の所領備前から熱烈な信者であり、製鉄技術者である大八郎・小八郎兄弟を招き、「千松」に移住し、千松を名乗ることになります。この地はキリシタン発祥の地であり、この後、鉄の生産量が飛躍的に増えています。  

《洞窟(『仙北隠れキリシタン物語』カバーより) 大東の佐藤家 キリシタン史跡分布》

 昭和28年10月16日の朝日新聞(宮城版)の見出しに「屋根裏に中二階、キリシタンを隠した家」が報道されていますので、記事と史料を紹介することにします。
 佐沼西郡街道の起点高清水要害の主は、石母田家で、同家には膨大な古文書があり、私が宮城県図書館の資料課長をしていたとき、石母田豪さんから寄贈されました。現在は東北歴史博物館で所蔵しています。この時点では、キリシタン関係文書は既に天理大学で収蔵しています。しかし、明治の儒者作並清亮が書写した「伊達氏史料 一輯巻之九」があり、仙台市博物館と宮城県図書館に所蔵されています。平成22年、『仙台市史』の「特別編8 慶長遣欧使節」の「半三郎白状書(377)」が掲載されてていますので下記することにします。

       半三郎訴人

  一、伊達安房守殿医師仲庵并女房、子五人の内男子弐人女子三人、何れもきりしたんにて
    御座候、仙台領亘理村に罷在候、伴天連孫右衛門致宿候故、宗門之儀に存候、

  一、仙台領馬籠村に罷在候佐渡と申者、夫婦共にきりしたんにて御座候、年頃六十計ニ罷成候、
    是も孫右衛門宿いたし候故、宗門之儀に存候、佐渡子ニ休作と申者、家を持、同所に罷在候、
    夫婦共にきりしたん御座候、

  一、仙台領馬籠村之内、大東と申処に、助右衛門と申者、女房并子壱人、何もきりしたんにて御座候、
    是も孫右衛門致宿候故、宗門之儀に存候、

  一、仙台領ひたり沢九郎左衛門、夫婦共にきりしたんにて御坐候、年四十七八に罷成候、
    是も孫右衛門致宿候故存候

  一、仙台領給主町に、神尾孫治右衛門と申者、きりしたんにて御坐候、年四十あまりに罷在候、
    此者支倉六衛門と一所にのひすはんやへ渡り申候、
 この史料の三項目に「馬籠村之内、大東と申す処に助右衛門と申す者・・・」があり、これが朝日新聞の記事の佐藤家です。そして朝日新聞は「同部落に住む役場職員佐藤武造さんが助右衛門の十七代目の子孫であることをつきとめ、さらに現在の家が孫右衛門(フランシスコ・バラヤス)をかくまった当時の家であると折り紙をつけることになったもの」と記しています。この家はフランシスコ孫右衛門が日常は「でい」(客間)で生活をし、藩の役人が来た時には納戸に入り、さらに危なくなると、天井板をあけて中二階に身をかくし、さらに天井裏をつたって外に逃走することも考えられるとあります。
 400年も前の史料と家屋が残っていたことは、たいへん貴重なことです。しかし、残念ながら現在は改築をしてないとのことです。  
《馬籠の街 明治末期、津谷街で開かれた馬市 風越の七里塚》

 「馬籠町絵図」によりますと、宿場の入り口には町切土手があり、入り口および中央と出口には枡形が土手によって仕切られています。道には「水戸」と記された中堰があり、中ほどに検断屋敷が記され、屋号に「札場屋敷」があるといいます。絵図には「天和三年御伝馬町」となったと記されています。したがって正保国絵図には記されていません。私はこの絵図を見て書いているのですが、絵図の出典をメモしておかなかったため、絵図をお目にかけるることが出来ないのが残念です。
 馬籠から津谷宿への道は、ほぼ国道の南側を並行して東へ進み、山田川を渡ると小泉からの町道と交わる猪鼻橋から600m進み、旧道は国道と分かれ左に入り、浄勝寺の前を通って津谷川を渡り津谷町に入ります。ここから終着点の「風越七里塚までは遠くありません。

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