suberahime

湯倉温泉紀行

【はじめに】

加美町を通る街道には、中新田を起点として鳴瀬川に沿い、軽井沢峠を越えて羽州街道尾花沢に通ずる「銀山街道」があります。
 その他に、田川を挟んで北に切込までの古い「北川道」、南に近世に成立した宿駅宮崎経由の田代西峠を越え羽州街道舟形宿に通ずる「田代西峠越え」があります。
 また切込の近くの旭壇の追分け碑に刻まれている「右ハ湯ノ倉道 左ハ寒風沢道」とある鍋越峠越え尾花沢に通ずる「寒風沢道」があります。
 これらの道については加美町「最上海道研究会」が踏査すると思います。また私も切込以北及び寒風沢から先の道は歩いていませんので割愛します。ここでは追分け碑にある「湯ノ倉道」の「湯ノ倉温泉紀行」を紹介することにします。原本は宮城県図書館所蔵で翻刻文は東洋文庫にあります。
 切込宿は「安永風土記」には天正年中(1573〜1591)の町立とあり、継立(運送)は宮崎宿だけとあり、澄川をさかのぼりますと湯倉温泉があり、この辺一帯は多くの鉱山があり、「長秕千軒」「檜沢千軒」という坑夫や商人たちで賑わっていました。
 湯倉温泉の入り口に「十分一」(ジブイチ)の地名があり、「十分壱関」の標柱が立っています。ここは出入りをする物資の関税ををとる関所があった所です。
 この紀行文の内容は中新田町の医者一方軒玄英が天保12年(1841)に目の治療のため湯ノ倉温泉に湯治に行ったときの記録です。
 なお、解読文は原文と照合しながら、かなが続くところを漢字に直したり、送りがなを入れたり読みやすくしていますが、わずらわしいときは後述の「解説」と「あらすじ」へ通り過ぎて下さい。
 


《一行の通った道筋》


湯倉温泉紀行

          湯倉温泉之羇行
天保十二年のとし弥生はつかころより、おのれ目のやまひにおかされしを、湯の倉となんいふ温泉に入りなば早くも癒へなんてふ、懇ろの仲間に教えられ、卯の花の咲く初め(四月)の五日、ひとりの女のわらはを率いて、朝まだきに駕籠の男等に助け乗せられつゝ打ち立つ。ようやく一二丁も過ぎゆけば、しのゝめしろうなりにたり。
  苗代やほのぼの青く明けにけり
なんと口ずさみつゝ行くほどに、田川の橋に至る。己が目の早く癒えなんことを思ほへて
  やくそくはたがはぬからにとんとんと われとよくなる橋の音哉
 南は黒川なる七ッ森を打ち眺め、北にはその昔、大崎義隆の家臣、米泉権右衛門となんいふもののふ(武士)の古館の跡(米泉)なりとて、塀・築地のありて、所えかほにをりかさなれるさまは、昔をしを今にしのばれて、いとあはれになんおぼゆ。とみかう見するに、下野目てふ処につきぬ。道のかたはらに茶店と見えつゝ、菓子くだものなんど、ひさぐいと小さき家のおもに駕籠をおろして、女のわらはの乗りたる馬をなん、待ちやすらいにき。かの家のあるじ、まめ心にして、茶なんどおこせて給いければ
  うれしさはかみの目玉のためなりと 下の目に来て茶をの目ばよし
なんど口の出るまゝにのゝしり、打ち笑ひつゝ、馬も来にければ、打ち語らいつゝ小泉となんいふ所に至る。道の辺の流れは、いづちの山より涌き来たりことさへ、知りもはべらねど、清げにして水晶をのべたるかと疑うがはる。此所に酒ひさぐ家のわかるよし。己若かかゝりし頃より、酒てふものは、なにはがた、そのよしあし(葦・芦=良・悪)は知りもならはねど、「味わいのうまし」となん、聞こえぬれば
  養老の瀧ならなくに孝行のありしや こゝにこいづみぞわく
なんど唄いものしつ行くまゝに、宮崎となんいふ駅にいたりて時を聞すれば、はや巳の刻(午前10時)にぞなりにける。此所は、むかし笠原民部てふもののふ(武士)のこもり居たる古城の跡なりしとかや
  卯の花や垣根をひろふ矢の根石
なんど口ずさみ、ふと思い出して駕籠のをのこらに向かへば、やよ、過ぎ来し小泉てふ所より、此所までの歩みをかぞへぬれば、およそ五千十二歩になん侍るものをと言へば、男等もこはおかし。くずをれたまはで、よくもかぞへ来給へぬとて、打ち笑ひたはぶれつゝ、駕籠をいそがすほどに、三島屋てふ酒店のおもに据えにき、それより酒なんど食べ得させつゝ、又打ち立つ。


《鳴瀬川と田川が分流 南山書の湯殿山碑が見える。》


扨、此地をなん出はなれては、あしひきのをりつゞきたる高山は、屏風をたてたるが如く、なるもあり、或いは牛のねぶれるさまなるも有り、或いはふすまかつきつゝ横ほりふせるかたちも見ゆ。されば「服部嵐雪が発句に“ふとんきて寝たるすがたや東山”といひしも、かゝる景色を見つ、よみつらめ」と、いとおかしふなんおぼゆ。薬莱山は是よりひつじさる(南西)にあたりて、四方の山よりも高く、いただきにたゆたふ雲の、日のひかりをおびたる、いといとありがたかりけらし
  水晶や珊瑚琥珀はなにならん 瑠璃のみやまの雲のはたては
となん打ち拝み、行きさきは坂なれどけわしからず。駕籠のをのこら足をそろへ、しとしとと行く道の傍らに、水音の山にひびきていとおかしう聞こえければ、駕籠の内よりのぞき見るに、岩ほ峩々とたちて、そのたけ(丈)いく百尋(モモヒロ)ともいひはつべくもなき。下は川にして、流れはあさくありなん。しかはあれど、水のいきほひ、石にうちかゝりつゝ、せかれてひゞき、音をのみ伝へ聞こゆるにこそありけれ。行々ひぢを曲げたる如くなる道のすまをりの藪の中より、いとらうたげなる声音して鶯の笹なき出れば、女のわらは、馬の上より「やよ、あれなん、なんぞ」と問いしとき、駕籠のをのこら、「鶯さへしらぬに」なんとうち笑はれつゝ、はずかしとや思ひけん、顔あからめぬるも、いといとわびしかりき。およそは世の中の人、おとなし、童のけじめにもあらで、見もし聞きもならはぬことしあらば、いかにして知れることやは。まへて此女のわらは、人の巷(チマタ)におへ育ちつゝ、遠山里のことなんと、えもしりはべらぬも、むべなきものかは。とかくするうちに、駕籠はあゆみて遠くなるまゝに、鶯の声もやうやく蚊の声のやうになりて、いまや絶えなんとするとき
  鶯よわれとわかれ路啼(ナキ)をくれ
 いそぐとは思ひはべらねど、坂を下ればはや川のほとりにつきぬ。今来しかたをなん見かへれば、のぞき見し、下なる川は、此川の水上にぞありける。駕籠にかゝれて来しときは、弐丁ばかりにもありなんと思ひぬるも、今此川のまゝまっすぐに行きなば、壱丁にもたらでやありつらめと、いとおかしかりけらし。さりや、此川に橋有り。およそ百あゆみばかりもありなん、左右に欄干をかまへつゝ、あしびきの山川には、にげ(似気)なきまでに思ひ、駕籠を欄干によせて橋の下をなんのぞき見れば、水清くして瀬をはやく、岩にせかれて滝川の流れにきそふ鱗(ウロクヅ)は、そのたけ琵琶のばちばかりに見へて、或いはのぼり或いはくだり、かたみに口をそろへつゝたゆたふさま、「岩清水ながれにあそぶうろくづのかげさへ見ゆる」と詠じたる源三位頼政のおもかげを、今見る心地になん思へ侍りて、いとおかしかりき。


《切込の駅》


夫れより橋を過ぎ行けば、その坂けはしうして、駕籠の男等も、こゝに憩へ、かしこにやすらへつゝ、息つきあへずきこへて、「さこそ」と思へて、いとうたてかりき。
 やうやくのぼれば、切込てふ山市につきぬ。此所は四方木立ならびて、葉山しげ山しげゝれば、天平のむかし、皇姫(スベラヒメ)のふるごとをなん思ひだして
  夏もやゝ額田の姫の秋にあはゞ もみじもみじに霧こめわたせ
 かくいはゞ、すべらひめの罪をやかふむりけん。しかはあれと、己がいぎたなき思ひには、「春山こそ」と思ふものから、春と秋との二(フタ)おもに、とにもかくにもねじけ心なりけらし。此所の家居はつかに、発句文字の数(17)ばかりにしもありなん。されども人すむ家は稀にして、或いは畑となりつゝ植えものし、或いは空蝉のもぬけのからとなりゆきて、主なき庭に山躑躅、だれを力にむれ立て、咲きぬべきよすがさへなきにこそ、いとよはげに見へしは、心なき草木すら、なをありげになん覚え侍れ。
 是なん六とせばかり先の年、天神のいかなりけん、情けてふもの忘れさせ給へにしことのおましけん、そのさみだれの頃より雨のふりいでゝ、夜も長月の頃までをや(小止)みなければ、あをひとくさのしほたれ、植えしかひもなみ、よろづの食物にかつ(餓)へぬるに、かけまくもあやにたふとき、国のかみ(守)のおほん情けをなん、思しを(食)すなるまゝに、よね、まめなんどくだしたまへて、おほん救ひ給へしなれど、それさへ届きも得ぬ幸なき人は、こゝに飢え、かしこに凍へつゝ、「やよ、ひもじ、かつへしよ。もの食べえさせ給へね」なんと、老いたる、幼き、ますらを(丈夫)のけじめなけれど、真心ある人もたすけ、すくふべきかたもなきに、それさへあるに、疫病(エヤミ)てふ、やまふ(病)の、所狭きまて、いやはびこりにはびこりつゝ、将棋の駒なん倒すがごと、家毎に病み伏せるは、せんすべなし。こゝの岡の辺、道の傍らに、呼ばへ呻きて、えも言わんかたこそなけれ。こゝに悲しきことの多かるなかに、やせたるうなひ(幼)子の、死にたる母の乳房にすがり、乳の出ざるをや、怨みけん、ただ啼きに啼き居たるに、心なき犬はその母の足をくわへて引き、鳥はついばみつゝ、その上を飛びちがへし」とかや、きこへ侍るに、「かゝれば此山市も、その年にしも、かうやうにやなりつらめ」と思ひ感じて、胸痛くなん思へ侍るに、時こそあれ、天窓(頭)の上には初時鳥の音なへしければ、「あはや」とみる間にいづちへか飛び行けん、かげをさへ見へずなりにたり。
  一声のおとしたからにわれはまた
    ひろへものせりはつほとゝぎす
  時鳥あぶなくあたますでのこと
  けられたらうれしかろふぞほととぎす
なんと、口に出るまゝにつぶやきつゝ、心を慰めさめけり。坂を下れば道のかたはらに、木のからをのみもて葺ける家の二ツ三ツ立ち並びたるあり。「是なん、なんぞ」と問はせければ、「瀬戸てふものを焼かせける所」となん聞こへはべる。夫れよりのぼりつゝ、あしびきの山にや入らんとす」れば、坂を下り、いときよげなる川のほとりにつきぬ。此川の橋はわずかにして、やうやく鶴の羽をさへうち渡す、ばかりなるを、やをら越えつゝかたへの岩根にうつり、川に入ては、山に登り、川また川を打ち越しぬれは、やおら未の刻(午後二時)ばかりに、湯の倉てふ温泉につきて、湯守る家に入けらし。家のあるじに対面しつ。四方弐間ばかりもありなん座にいりつゝ、駕籠男等、馬ぬしなんどに昼餉たべえさせて、「又の迎えは、とをまり三日(十三日)」とちぎりつゝ、只それまでの名残なれと、別れといへばうきものなるならへ、申の刻(午後四時)ばかりになんうちたちぬ。


《湯倉温泉と鉱山の図》


 夫れより女のわらはと共に、朝餉・夕餉の世話をして、かたみに温泉に入りつゝ、一日二日をなんほど経にける。己が住居し右に左に、座敷の内には、こゝの老女は婿がねに送られ来し、かしこの翁は女のう孫率いて来、若き老いたる、男をみなのけじめなく、もふ来て、知るも知らぬもむつみ語らいつれど、昨日までみし人も、今朝はみもわかず。今日まで二なう睦まじかりしも、明日はかならず別れをつぐるになん。御仏も「生者必滅会者定離」とは仰せたまひき。久かたの天が下、住む者悉皆此理(コトワリ)なきことの有ものかは。されば、うき川竹の流れの身には、夜ごとにかはる枕にて、さこそと思へ、うれはしけれ。別るゝ人に言問へば、「目のいたつきたるも、はや癒へにし」となん言ふめる。己が目は夜毎日毎にぬば玉のいと暗うなるのみかは、次第に疼きのいや増して、朝夕のことすら見へも分かずなん。遂湯あみすることさへ、くづをれやかみぬ。
  おもひきやすぐならばこそ道ならめ われにゆがみてしるしなきとは
 こゝろにうらめしく、つぶやきつゝ日を送りぬ。
 此所は公より、鉛てふものを掘らせ給ふとなん聞こえぬるに、彼湯守が家のあなたに家居ありて、その司するあがたの主住居て、多くお男・女に下知なんしつ。亦傍らなる「しきゐ」てふ、五六尺もありなん岩穴の内より、掘り出たる鉛の石なん、負い来る髭男もあり。あやしげなる得物もて、しきいの内に入るかた目女の、笑顔して何やらものいはまほしげに、ふりむきたるも興ありげになん。彼あがたの主の家に打ち続きたる小屋には、かけ樋てふもの引わたしつゝ、川のあなたより涌き来る水をせき入れて、鉛の石を砕きて、粉のごとやうのものを洗ひ流しなんどする女は、十あまり五七人もありなん。何ら若やかにして声をなん打ちそろへつゝ、今様をうたふ。或いは長く或いは短く、或いは太く或いは細し。老いたるは眠りを催し、ますらおのこは心をや動かしぬる、此時にやと、いとおかしかりき。又五七間ばかりも隔ちてありなん、川の辺の家には、鋳掛けするてふ鞴(フイゴ)の大きやかなるをもて、白めきたる炭をなんいと高やかに盛たて、かの鉛の石の粉にしたる、しきりにはき入れふき立るまゝに、火花は四方に散り、炎は高くなんのぼりて、いとおそろしげなり。是なん掘出たる鉛の石を、粉にしつゝ吹きあぐるにぞありける。
 己いまだ家にありしをりは、湯倉てふ処に行なば、夏木立の景色にめで、閑子鳥鳴く声をしも聞かまほしうなん思ひはべりしも、みな無駄ごとゝなにはなる目のいたつきさへあしかりければ、そのことをだに果たしもやらで、さありとて、たゞにやみなんもまた口をしく、「夏木立しげらば、かうやうにもありなんか」「閑子鳥啼く所をしも、かうや通らめ」と、知らぬことをさへ、推し量りて、
  昼もこゝは月ほしげなり閑子鳥
  大木の青葉に白しうをの骨
なんどつぶやきつゝ日を送るまゝに、夏の日のながきに寝つ起つ、「温泉にしも入らで、今日の日をや暮らさん」「あすはいかにせまし」と思ひ、う(倦)んじて、はや十日ばかりになりにたり。
   かゝれば、今日こそ十三日になんならめ。「向かへの男らを待ちてん」とて、朝まだきに起きいでつゝ、女のわらはとゝもに、朝餉食べて待つかひこそなけれ、辰の刻(午前8時)ばかりより夕立雲のいやおひかさみ、雨も降りいでゝ小休みなければ、午の刻(正午)ばかりになん雷のいと恐ろしげにはたゝめきつゝ、今やこの家の上に落ちかゝりなん心地もぞする。やうやくその日のくるゝばかりに、雷と雨とゝもにをさまり給へにき。明日なん、此所を立ちぬべきに、「己が目の癒へてかへりなば、温泉の功なんども物語りし、世の人もしりてん。さあれば此温泉の末ながふ、いや盛りに栄えなんものを」と思ひ続けて
  しるしなきわれはいとはじ世の人の とはでや後のためぞゆかしき
など打ち吟じつゝ、其夜はいねもやらずなん。早くも起き出て、今日しも十四日、「迎への男らも来まさんものを」と、心構へして待つほどに、巳の刻(午前10時)ばかりになん参上り来て、「いざたまへ。こなたへなん」と急がされつゝ「あな、うれし」とて、湯守に暇乞ひしつ。駕籠の男等に助け乗せられ、女のわらはも馬にひかれて、もと来し路を急がしつゝ、切込を打ち過ぎ、宮崎の駅につきて、彼三島屋が内に入りつゝ、人々に酒なんど食べさせぬるに、宿のあるじの女、久しうあつはい、伏しぬるに「脈なんとりえさせ給へね」と、青木宗清となんいふ医者の招きにまかせて、臥床に入つゝ、面持ちを考ひ、かの医者に打ち語らゐ、立いずれば、昼餉なんど出して強いぬるに、「否まんもいや(礼)にしもあらじを」と、食べ終わりて、たばこなんどくゆらしける。駕籠の男ら、「やよ、日も西に落ちなん。いざたまへ」とて、忙しければ、宿にいや〔礼)をし、又助け乗せられつゝ、馬とゝもに急ぐほどに、小泉も過ぎ行、下の目〔下野目)につきぬ。彼の茶店の主に過ぎにしいや(礼)をのべつゝ、夫れより田川の橋を打ち渡るとて
  よくなるといひしも今はたがはれて くやしかりけり出湯のかへるさ
   なんと打ち恨みつゝ行くに、東のかたを望み見れば、その間遠く、おのが目の悪しきになん、つばらに見へも分からねど、田の面に出て、田返し田植へたる丈夫・早乙女は、鍬をかかげてかへり、薪ひさぎたる田舎人は馬をひいて戻る。互いに腰をまげて、いや(礼)をなすそぶりは、相知りたる中となん覚ゆ。馬は蟻のごとくにひかれ、人は米虫の立て歩むかと疑がはる。とかくする間に、家路は次第に近くなるまゝに、日は山にかくれて、ぬばたまの闇にしもあらねど、夕立雲のいやおひかさみつゝ、いと暗うなりて、やうやく中新田なる西町の、女のわらはが家い着きぬ。明れば十五日、目のあつはゐに病み臥し、一日二日をなんおくりつゝ、ふと思ひ出して、温泉にておのがせし発句一ツ二ツを書き付け、まどへなれのともどちへ、どさなりとて遣わしぬれど、なにごとのよすがさへなきに、ゆくりなく清雲雅子のかたより、
  きくきかぬ出湯はさておけほとゝぎす
 かかる雅びをなん、いひおこせたまへにけり。おのが目のいたつきは、とまれかふまれ、初時鳥をなん聞きしこそよけれと、羨み慰め給ふなる。時鳥の情けをいひとりしは、いとをかしかりければ、こゝに記しはべるのみ。


《田川の橋を渡り中新田を眺望之図》


天保十二丑のとし 四月はつかあまり二日    一方軒玄英居士著 (判) 

   湯倉温泉の紀行 終

解説 

 この資料はたいへん難解で、かくいう筆者も分かりかねる部分がたくさんありますが、加美町を通る「田代街道」の絵を交えての資料としては、貴重な紀行文ですので、あえてホームページに取り入れてみました。絵を見るだけで通り過ぎても結構です。
 以下、私なりの「解説」と「あらすじ」を試みてみます。

 この物語の主人公は中新田宿に住む町医者一方軒玄英で、医業の傍ら俳句や和歌をたしなみ、歴史にも関心を持ち画にも堪能な文化人です。一方軒は雅号でしょう。彼は眼病を患い、治療のために、目の病に効能があるとと言われている5里ほど山奥の湯ノ倉温泉に湯治に出かけます。
 一方軒の通る道筋には、はるかに古代の東山官衙遺跡を眺めることが出来、中世は大崎氏ゆかりの地、近世の宮崎宿は石母田氏の居館があります。また切込には磁器として名を知られている切込焼があり、「切込焼記念館」があります。  古代の東山官衙遺跡について一方軒は知らなかったのでしょうか、何も書きとめていません。私のHPの「仮説 玉野新道」をご覧下さい。一方軒の居住する中新田は大崎氏の拠点で、国道457号と347号の交点が典型的な平城の中新田城跡で、現在は八幡神社の境内になっています。伊達政宗は、葛西大崎一揆の疑いを晴らし、大崎領併合の念願を果たすため、大崎氏の家臣笠原民部の居城宮崎城を攻めます。この激戦で伊達方の知将浜田伊豆景隆は討ち死にし、墓が宮崎中学校前にあります。
 宮崎落城の60年後の承応元年(1652)に伊達家重臣石母田氏がこの地を拝領しますが、手狭であり宿駅に遠く不便のため、在城6年でもと宮崎町役場(現加美町支所)のある所に新館を築き移りました。   


《石母田長門屋敷絵図 米泉城跡 宮崎城跡 浜田伊豆の墓 切込焼関係》


 石母田永頼は明暦元年(1655)に野谷地332町歩を拝領し新田開発に意を注ぎ蝉堰を構築しました。蝉堰についてはHP「加美町の穴堰」をご覧ください。永頼の知行高は承応元年(1652)に6500石で内訳は加美郡5340石、胆沢郡(岩手県)1160石です。この6500石は仙台藩の寛永総検地の結果の数値です。この検地を基にして幕府に報告したのが正保郷帳であり国絵図ですが、この国絵図に胆沢郡上野新田が記載され、この新田の用水路「二ノ台堰」は蝉堰を造成した鎌田善内の親が普請方として開発しています。とすると永頼は何らかの形で、藩の新田開発プロジェクトに関係していたと考えてもよさそうです。ちなみに永頼の祖父宗頼は元和元年(1615)に仙台藩奉行に就任、翌年胆沢郡水沢に4000石を拝領しています。
 蝉堰の完成によって宮崎村の新田開発が可能になり、寛文元年(1661)の石母田氏の知行高は7212石となり、700石余の新田開発が行われたことになります。そしてその陰には親子2代にわたるたたき上げの土木技術者の存在が浮かび上がってきます。
 宮崎宿を出ると水田が広がり、字名「一里塚」までは旧道が続きます。赤坂の手前には明治期に建てられた「右永志田寒風沢道 左門沢道」刻まれた道標があり、旧道は県道と重なって西進、馬頭観音碑のある所から県道を離れ迂回し、再び県道に合流する所が旭壇で、元文元年(1726)の「右ハ湯ノ倉道 左ハ寒風沢道」の追分け碑があります。
《赤坂の追分け碑 旭壇の追分け碑 寒風沢番所跡標柱 湯倉入り口にある四分一関の標柱 》

     一行が切込に着くと、天保の飢饉の惨状の後遺症を一方軒は目にします。東北の飢饉は、一般に宝暦5年(1755)の「宝五の飢饉」、天明4年(1784)の「餓死の年」、天保の飢饉は連年続いた飢饉で三大飢饉と言っています。これらの飢饉は梅雨期から真夏にかけて「東風冷雨」のいわゆるヤマセが原因です。
 連年の飢饉とは天保3年の凶作、同4年の大凶作で同9年まで続き、10年は五穀豊穣でした。9年の損害を仙台藩は幕府に82万石と報告しています。天保の飢饉について『松島町史』は「高城本町の者、12〜13才の子供の腕を煮て喰い候、まことに町村はずれに流民横たわり犬や鳥に食われ、腕や足をくわえて歩行」とあり、一方軒も切込で6年前のこととして同じようなことを書きとめています。

 切込について一方軒は「山市」と書いています。その意味については不明ですが、この山奥で町場のような賑わいがあったことを意味していると思います。切込宿に着いて「四方木立ならびてと額田王(ヌカダノオオキミ)の春山と秋山の歌を思い出しています。

冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば取りてぞしのぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし秋山われは

万葉集にある歌で一方軒の教養の深さがうかがえます。
 切込周辺には、金・銀・銅・鉛などの鉱山がたくさん分布しています。藩の鉱山関係のことを記した資料に「御金山御山例」があり、その中に「加美郡檜沢鉛、享保十二年中の吹出鉛二百貫め」とあり、この時点で鉛の鉱山として知名度の高い細川鉱山は150貫です。また「檜沢千軒」「長枇千軒」と言われ多くの坑夫たちが生活をしていました。このような男社会には遊女が尊重されます。檜沢には島原屋敷という遊女街があったとのことです。田川の支流澄川をさかのぼった所の「長枇千軒」には「君ヶ姫」と言う美しい遊女がおり、その墓が野中にあり「歓喜信女」という法名が刻まれています。
 これらの坑夫たちが集まり賑やかな所が切込でした。江戸の歌舞伎が東下り(アズマクダリ)をすると、仙台の榴岡と切込に交互に小屋がたち芝居が行われたそうです(郷土史家只野淳談)。

《長枇山 君ヶ姫の墓 御金山御山例》

   このほか東北の磁器の最初の地としての切込焼があり、温泉保養施設「ゆーらんど」の向かいに「切込焼記念館」があります。
《ゆーらんど 切込記念館 湯倉製切込焼》

 

あらすじ 

 天保12年4月、目の病いのため、友から湯倉温泉は眼病に効能があると聞き、4月5日朝暗いうちに駕籠に乗って出立した。間もなく夜が明け、田川橋までくると南に七つ森が、北には大崎義隆の家臣米泉権右衛門の古館が見え、当時の塀や築地の遺構が残っており、しみじみと昔のことがしのばれる。
 田川橋を渡り、下野目の茶屋で一休みをして連れの女性が来るのを待つことにした。その間に一句「うれしさはかみの目玉のためなりと 下の目に来て茶をの目ばよし」、目と下野目と「茶をの目ばよし」と目の快癒を願って詠んでいる。待ち人もきたので立ち上がり、小泉宿を経て宮崎宿をめざした。途中、宮崎城の戦いで討ち死にをした伊達政宗の知将浜田伊豆の墓を見落としたのでしょうか。その延長の山並みにある天然の要害宮崎城について「この所は、むかし笠原民部という武将の籠もりいた古城」と書きとめている。宮崎城は葛西大崎一揆の拠点で、天正19年(1591)伊達政宗が攻めている(解説参照)。
 宮崎宿に着いたのは午前10時、三島屋で一行に酒を振る舞って出立した。北には山並みが連なり、その麓に沿うように北川道という古い道が切込宿に通じています。南西には標高553,1mの地元では加美冨士と言っている薬莱山が聳え、頂上には薬莱神社の奥の院があり、陽の光をあびて神々しいので拝礼をする。
 水田の中を進むと突き当たりに旭壇の追分け石があり、「右ハ湯之倉道」を進む。ここからは田川の形成した峡谷を勢いよく流れる川の音を聞きながら、欄干のある橋で駕籠を止め下を眺め「水清くして、瀬を早く岩にせかれて滝川の流れに競う魚(鱗)は」と書き止めている。百人一首の「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に合はんとぞ思ふ」が思い起こされます。
 橋を渡ると坂が険しく、ようやく登ったところで切込宿という山市に着く。宿の手前で北川道と合流しています。山市について『古語辞典』を引くと「江戸で造られた屋形船」とありますが、ここの場合は符合しませんので解説では「山奥の町場」と私見を述べておきました。
 「是なん六とせばかり先のとし」で始まるくだりは、天保の飢饉の惨状をのべており、解説では松島町高城の例を引用しましたので、ここでは一方軒の記憶を下記します。

やせたる幼子の死にたる母の乳房にすがり、乳の出ざるや恨みけん、ただ泣きに泣きいたるに、心なき犬はその母の足をくわえて引き、鳥はついばみつつ、その上を飛びちがえ

 切込宿から下った所に切込焼の窯があり、そこから上り坂を進み、山越え川越えて進むとようやく湯倉温泉に着いた。一方軒は馬方や駕籠を担いで来た人たちにお昼をご馳走し、13日後に迎えに来てくれることを頼んで別れた。
 朝夕の食事は女衆が入浴の傍ら仕度をし、湯治客はさまざまな人たちが語り合い、睦みあい、それらのあの人、この人は朝には姿が見えず、御仏の「生者必滅 会者定離」は浮世のならいと身にしみ、別れる人に「目はなおりましたか」と聞くと「よくなりました」と答える。それに引き替え私は、次第に痛みが増して朝夕のことも見えなくなり、湯あみすることも出来ないと、つぶやき、恨めしい日を過ごす。
 湯倉鉱山は大坂浪人山元勘兵衛が伊達政宗に召し抱えられて、寛永5年(1628)、湯倉に屋敷を与えられ、主として鉛・銅・金・銀を開発したと伝えられている。遠くより川の水を掛け樋で導き、鉛の石を砕き、粉を洗い流すのは女の人たち十数人が働いている、みな仕事をしながら今様を唄っている。老人は眠くなり、若者は心を動かしている。少し離れた所にに鋳掛けをする大きなフイゴに白炭と鉛の石を粉にしたのを入れるので火花が散り、炎が高くあがっている。家に居るときは想像も出来ない光景である。
 目が癒えず温泉に入ることが出来ないまま10日ほどが過ぎた。ここに来て13日になり、明日は迎えの者が来ることになっているが、目がよくならなかったことを何と話したらよいかを眠れぬままに考え続けて、「温泉の効果はなっかったことを皆さんに話しはしないことにしようと「しるしなきわれはいとはじ世の人の とはでや後のためぞゆかしき」と書きとめたら朝になった。
 14日めに迎えがきたので湯守に暇乞いをして、男衆に助けられて駕籠に乗り帰途についた。帰路は同じコースを帰り、田川橋を渡って詠んだ歌を下記して「あらすじ」を終わることにします。
    よくなるといひしも今はたがはれて くやしかりけり出湯のかへるさ
  

 

 


 

 ホームヘ戻る

高倉淳のホームページ