大衡村の奥州街道 後編 

―奥田一里塚の発掘調査―

【プロローグ】

 最初に今回のHPの主題である昌源寺から奥田坂の峠にある一里塚までを地形図を頼りに歩いてみることにしましょう。
 昌源寺と高圧線は残ると思いますが、残っていた奥州街道は、高圧線と交わるA地点から始まります。C地点までは緩やかな坂道で平場が続きます。
 Cからは前編でも見たように歩く人もなく、篠竹や灌木が茂る街道になります。Dからが急勾配となります。この地形図は発掘に使用された2500分の1の縮尺です。地図の道路上に標高が記されていましたので、その点を結んで地形図の下に道路の断面を示してみました。DからEまでが急斜面になっており発掘の調査地点と重なっています。
 この間の距離は150mで「正保国絵図」の「この坂一町二十間」と一致し、その標高差が17mですからかなりの急勾配であることがわかります。
 図の中に文化財保護課作成の「塚と道路の標高差」を添えておきました。なおD〜E間の数字はトレンチ(試掘溝)の数値で一里塚の北の1〜3は割愛しています。

   「大衡村の奥州街道 前編」では、平成20年5月の連休から宮城県教育庁文化財保護課が同年9月8日に発掘調査が始まるまで、大衡村に残された奥州街道の景観を映像として紹介してきました。
 このHPでは、発掘調査前に私が推定一里塚としてきた一里塚が発掘によって一里塚と断定出来、9月27日の現地説明会まで全く不明であった大衡村寺沢囲の一里塚(西塚)と対をなす奥田村前沢囲の塚(東塚)が新しく発見されたことを含めて考察してみたいと思います。
 このHPをご覧の方は文化財保護課の詳細な調査報告書を楽しみにしていて下さい。奥州街道が、また一里塚が発掘調査されてその全容が判明されることは、宮城県としては始めてのことで、全国的にも注目される内容の調査です。「乞うご期待」というところでしょうか。なおそれまでは、この一里塚を「奥田一里塚」、寺沢囲一里塚を「西塚」、前沢一里塚を「東塚」と仮称することにします。また、前編との重複は避けたいと思いますが、重複するときはご寛容下さい。

【一里塚とは】
 一里塚は道の両脇に1里ごとに印として木を植えた塚です。里程については、6町=1里、39町=1里、42町=1里とまちまちですが、織田信長が36町ごとに一里塚を築き、榎(エノキ)を植えたことが記録に見え、豊臣秀吉は5間四方の塚を36町=1里として一里塚を構築しました。1丁は約109メートルで、町とも書きます。
 しかし、制度として確立したのは徳川家康が秀忠に命じて、慶長9年(1604)、江戸日本橋を起点として榎を植えさせてからです。榎を一里塚に採用したのは、榎木は根が深く、広がって塚を固め、塚が崩れにくいためです。しかし樹種については、松や杉などもあり、また一里塚は旅人にとっては、里程や駄賃の目安となり、木陰での休所にもなりました。
 こんな話もあります。『日本随筆大成(7)』に近世の雑話を集めた「雨窗閑話」に、「一里塚始めの事」があります。将軍が土井利勝に松並木が続いた後に、松では芸がないから「余の木を植えよ」と 言ったのを聞き違えて「榎木」を植えたとあります。
 仙台領の一里塚の起点は、北目町で、1里は36町で「正保の国絵図」に記されています。しかし、仙台以北は6町1里が通用しており、一里塚のことを「七里塚」とも言っています。仙台領北部から南部領では1里42町で、伊勢半という版元に居候をし、多くの往来物を書いた燕石斎薄墨(エンセキサイウスズミ)の「於曽礼山詣(恐山詣)」の頭注に「鬼柳より花巻へ三里 是より四十二丁にて一り也」とあります。この辺の状況を高山彦九郎の「北行日記」より引用してみましょう。  

  鬼柳番所にて南部の里数を尋ぬるに壱り四十九丁にも覚え、四十二丁とも覚えたる様子にて慥かならず。役前検断の所にて尋ぬるも是れも 慥に答ふる事能はず、書付を見せて四十二丁と答へたり、其書付のまゝ爰に載す。鬼柳より花巻入口川口まで三里二十三丁四十間、鬼柳より花巻北入口四間坤迄四里二丁三十七間、右は四十二丁一里の積り也、是れ迄は四十九丁のよしにも此の見せたる書付に記したれども計るに四十二丁に合ふ也。仙台領金ケ瀬へ弐里六丁是れは三十六丁道壱里の積り也とぞ。(略)仙台領三十六丁をもって壱里とす  
  とあります。仙台領三十六里=一里は幕府の物差しに合わせた表向きの数字で、実際は六丁=一里が使用されていました。前述した燕石斎薄墨が水戸から仙台に来る時、水戸から松島までを描いた「三三時雨歌の陸奥」に、これから仙台城下に入るとき、通りがかりの人に“国分町やらへはいくらありやしょう”と聞いたところ“六里ほどござる”“それは遠いの、大きい国だというても町のうちが六里というのはべらぼうにひろいの、江戸でも四里四方”というくだりがあります。答えた人は、仙台道とか小道という1里=6丁なのに、水戸からの薄墨の頭には1里=36丁があったのでしょう。仙台道を小道とか田舎道とも言っています。

【奥田一里塚へ】
 吉岡宿は伊達騒動に登場する奥山大學、戊辰の役の時の執政但木土佐の舘下町です。宿場を通り過ぎ国道4号に出合うと正面に昌源寺が見えます。昌源寺から奥田一里塚までが今回、発掘の対称となった昌源寺坂とか奥田坂と言われる登り坂道です。保田光則の「撫子日記」には「昌源寺といふ寺有」、『明治天皇聖蹟志』には「昌源寺坂は険坂なれば御馬車を板輿(イタコシ)に召し替へさせ給ひ」とあります。また「正保国絵図」には「奥田坂一町」、一里塚の印のある所には「此坂一町二十間」と記されています。1町20間は約150メートルですので、奥田坂とは昌源寺からの坂ではなく、一里塚のある峠までの150メートルの区間で、今回の発掘調査された区間とほぼ重なります。
 現地説明会の地形図によりますと、峠付近の街道の標高は、65メートル、南の7トレンチは48メートルで、その標高差は17メートルあり勾配がかなり急な坂です。
 なお仙台藩の境界を決める原則は、「嶺切り水落」(分水嶺)「片瀬片河」(川の中央)です。大衡村の場合は前者の稜線が村境になっています。

【現地説明会資料より】
 説明資料の中から「調査の結果」と「まとめ」および地形図を引用してみましょう。 
 

 街道は、東西から深い沢がいくつも入り込む、南北に延びる細長い丘陵上に造られ、北に向かって緩やかな上り坂となっています。大きく2時期の変遷を確認し、それぞれの構築方法の一端が分かりました。
 古い時期の道路は奥州街道と考えられ、地形にあわせたカーブの多い道になっています。場所によっては、約8mも丘陵を削って切り通し状にしたり、最大で3m以上も沢を埋めており、大規模な土木工事により道路が造成されていることが明らかになりました。造られた路面の最大幅は、丘陵切り通し部分で約4m、一里塚周辺で約7mです。2条の道路側溝が確認されるなど、造り替えが行われていたことが分かりました。
 新しい時期の道路は、奥州街道を堀りこんで造られています。つい最近まで使われていました。
 一里塚は奥州街道に伴うもので、直径10m、高さは2,7mです。丘陵を削りだして平坦面を造り、その上に礫混じりの土で最大2,7m盛土していることがわかりました。
  まとめ○以前から確認されていた街道を発掘調査した結果、大きく2時期の変遷があり、丘陵地での地形にあわせた道路の造り方が明らかになりました。一里塚の造り方とともに江戸時代の大規模な工事のようすがわかりました。
 ○宮城県内で江戸時代の街道を発掘調査した例は初めてです。さらに、残りの良い一里塚を調査した例もほとんどありません。今回の調査は、江戸時代の基幹道路である奥州街道や一里塚のようすが具体的にわかる大変貴重なものになりました。
 
 
《現地説明会資料の後に発見された東塚も入っています》
 
《現地説明会資料の後に発見された東塚も入っています》
 
 説明資料の地形図は縮小されていますので補足と私見を加えてみます。
 街道の北より1・2・3トレンチで、一里塚の北が9トレンチ、一里塚は8トレンチです。続いて4・5・6・7トレンチと続きます。
 南から登って行きましょう。7トレンチの標高は47mで、一里塚の街道面が65mですので標高差は18mとなり、かなりの急勾配です。この急坂を明治9年に明治天皇は、馬車から降りて輿で通っています。
 上の現地説明会資料の一番下左の写真「7トレンチ調査風景(北から)」は6トレンチから写した写真で、説明に「最大で5mも丘陵を切り通しています」とあります。
 同図の左上が6トレンチを南から写した写真で白抜きで「奥州街道」とあり、説明に「一段高い部分が奥州街道」とあります。下の写真左は地形図の部分、中央が北から見た6トレンチ、右が作業風景です。遠くに青いテントが見えますが7トレンチです。

《地形図部分→北から見た6トレンチ→作業風景》

 北から見た6トレンチの写真はパワーポイントから抄録したもので「右側の段違いは馬車通行のため」と書き込みました。今でも奥州街道なのか陸羽街道なのか私は判断に迷っています。陸羽街道の名称は、明治6年の太政官布告で布達されていますので巡幸の3年前になります。『明治天皇聖蹟志』には、馬車を降りて輿に召し替えたとあります。それにしても駕籠や乗馬と違って四人で担いだでしょう。また空馬車は通ったはずです。
 5・4トレンチの情報は説明書にありませんが、南から写した4トレンチの断面を見ることにしましょう。盛土のようすがよくわかります。担当の技師の話では、3mとのことでした。街道の東が沢に落ち込んでいます。

《4トレ断面→発掘前の一里塚の手前→道路側溝》

 8トレンチは発掘の本命ですので後述しましょう。「1トレンチの調査風景」説明には「最大で8mも丘陵を切り通しています」とあります。地形図でわかるように、道は一里塚から北は等高線に沿っていますので、ほぼ平坦な道が続いています。1・2・3トレンチは表土が薄くすぐ地山になっていました。

【奥田一里塚の発掘】
 この一里塚の西塚を私は「推定一里塚」としてきました。理由は「@街道西側の丘陵の外形を見た限りでは、その一部を削り盛り土にしている、A対になるはずの塚が見あたらない」などでした。ただ確認されている吉岡一里塚と戸口一里塚(駒場)の中間にあり、「増補行程記」に描かれている昌源寺にある一里塚は誤りではないかと考え、予定されている発掘調査を待つことにしたわけです。
 しかし発掘調査の結果は、みごとに一里塚と断定してよい結果が得られました。
 二番目の疑問であった対となる東塚が斜面に構築されていることが発見されました。そして江戸時代初めの土木技術のレベルがたいへん高いことがわかりました。東塚はいつの頃か埋まってしまい、私たちには姿を見せてくれませんでした。
 このような一里塚の発掘例は、全国的にも珍しく、宮城県では太白区秋保の大原一里塚があるのみで、江戸時代の土木技術を知る貴重な遺産でしたが、時間的に余裕がなく幕切れになったことは惜しまれます。

【西塚】
 街道は大衡村と奥田村境界の嶺を通っており、西塚の囲名は「大衡村字寺沢」、東塚は「奥田村字前沢」です。地形図を見ますと、一里塚は南と北の沢に挟まれた丘陵上にあり、峠になっています。塚は街道の西の丘陵の北半分を削り、平らになった所に削った礫と土砂をを積みあげて直径10m、高さ3mの塚を築いています。


《発掘前→丘陵を削る→西塚断面と溝》

【東塚】
 地形図を見ますと東塚の位置が丘陵の上でなく、沢の方へそれています。なぜなのかわかりません。もし丘陵の上に造れば西塚と同じ高さに造れたと思うのですが。東塚は段違いになって西塚より低く、街道面より少し高くなる程度です。土木関係の方の話では、斜面に盛り土するには「段切工法」という階段状にした上に盛土を固めながらしないと雨水のために流失するとのことです。しかし発掘の過程ではこの工法は確認されなかったということです。


《左 地形図部分 中央 東塚(北から)  右 背後に西塚が見えます》


《 東塚 ・右上の人に留意→ 東塚と道路の間→ 東塚の南トレンチ・ブルトーザが待っています》

   『日本交通史辞典』の一里塚の項には「しかし十八世紀後半ごろからは一里塚も荒廃してきたが、幕府は積極的な対策をとった様子は見られない」とあり、手入れがなされず荒れていたかもしれません。さらに明治政府は、明治5年の太政官布告で「有害無益ノ塚丘ハ総テ廃毀」せよと通達を出しています。明治9年の明治天皇東北巡幸のときは埋められたかもしれません

  【明治天皇の巡幸と奥田坂】
 戊辰の役で圧倒的な近代装備をした政府軍に対抗した奥羽越列藩同盟(東北諸藩)は敗退しました。明治政府は天皇の権力を誇示し、東北地方を鼓舞するために、天皇の東北巡幸が明治9年、同14年に行われています。
 政府は交通運輸の近代化のため、明治6年太政官布告で奥州街道を陸羽街道と改め、奥州街道の急坂を馬車が通行出来るように改造します。駕籠や乗馬の時代から馬車の時代となり、やがて鉄道や自動車の時代となります。その前触れが東北巡幸でした。
 栗原市の金成に新鹿野一里塚がありますが、今まで宮城県の奥州街道に残っていたただ一つの一里塚でした。奥州街道は、ここから重要文化財有壁本陣に向かう途中に十万坂を越えます。今の新幹線有壁第一トンネルの上を通っています。この急坂をを避けて迂回路を造ります。新道の登り口の千田家には「みゆきまつ民の心をかつ見せて岩きりとほし道ひらきけん」という岩倉具視の和歌が残されています。
 有壁本陣を過ぎると「肘曲坂」の急坂になりますが、ここは切り通しにしています。大衡村の奥田坂は「切り通し」や「迂回」する余地は全くありません。
 こうして見てきますと、ぬぐいきれない疑問が残ります。陸羽街道という名称は、明治6年の太政官布告で布達されましたが、馬車通行可能な坂の改修時期は地域によって異なります。有壁宿の人たちが連名で反対の歎願書を出しているのが明治18年(有壁本陣文書)で、明治天皇巡幸は明治9年と14年です。
 次の図と写真は、十万坂の迂回路と肘曲坂の切り通しです。奥田坂は前にのべたように、迂回も切り通しも出来ない尾根ですので、急斜面を緩やかにするため盛り土が考えられますが、その痕跡はないものでしょうか。

《右 明治9年東北巡幸行列錦絵(仙台市博物館展示図録より)
 

《右 改修された坂(赤点線) 中央 十万坂(東遊奇勝) 右 肘曲坂切り通し》

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