仙台周辺の古道

  プロローグ

 東山道は古代の街道名と受け取られがちですが、古代の地方行政区画です。その区画内を通る幹線道路(官道)が東山道です。
 『日本書紀』の景行天皇二十七年の条に「東国の中に日高見の国あり、この国の人は身にいれずみをして、人となり勇敢である、これを蝦夷という、土地肥壌で広し、撃ちてとるべし」とあり、蝦夷(エミシ)を平定するための交通路なのです。
 「延喜式」により仙台周辺の古道と関連する駅名を下記してみましょう。( )内は現在地に比定されている地名です。

篤借(越河)・柴田(大河原)・玉前(岩沼市玉崎)・小野(川崎町小野)・名取(仙台市郡山)・栖屋(利府)・黒川(吉岡)・色麻・玉造(岩出山)・栗原(鶯沢)・磐井(西磐井)・白鳥(前沢)・胆沢(水沢)
 東海道(トウカイドウ)は、東山道と同じく東国経営のための海沿いの道で常陸までの官道です。
 東海道(アズマカイドウ)は養老3年(719)に常陸から海に沿って北の玉前(タマサキ)駅まで延長されましたが、100年後の弘仁2年(811)に「陸奥国海道十駅を廃す」(日本後紀)とあり、長有(ナガエ)・高野の2駅を設けて東山道に結びつけています。廃止された十駅がどこであるかは、わかっていません。
 こうして東海道は正史から消えますが、文治5年(1189)の源頼朝と奥州藤原氏の合戦で、この浜通りの道を千葉常胤が大軍を率いて平泉に向かい、戦後は千葉家一族にこの地域が恩賞として与えられます。
 東街道(アズマカイドウ)の名称は、仙台だけでなくよく用いられています。不思議に東山道の名は、元禄頃に書かれた地誌にも出ておらず、殆どが東街道と記され、伝承されている古い道も東街道です。これらを念頭に置きながら古道を歩いてみましょう。

一 アップルライン

 正史に残る東街道は、源義家が「吹く風を勿来の関と思えども みちもせに散る山桜かな」と詠まれている勿来の関(いわき市)で「みちのく」に入ります。勿来の関はもと菊田の関と言い奥州三関の一つに数えられていました。最近、勿来の関は利府町説(惣の関ダム)が検証されています。
 海沿いの道を北上し宮城県にに入ると、阿武隈山地の麓を通りますが、沿道にリンゴが栽培されており、アップルラインと通称され、この道が東街道と重なっているようです。この道を明治初年に編纂された「皇国地誌付図」の亘理郡地図(明治18年)を見てみましょう。朱線が東海道、青線が陸前浜街道(江戸浜街道)です。
 東街道の道筋には神社や奈良・平安時代の遺跡が点在しています。阿武隈山地の北端には、三十三間堂官衙遺跡があり、稲葉の渡しで阿武隈川を渡ると「玉前駅」(玉崎)で東山道と合流します。


《亘理郡皇国地誌付図》



《左は山本町中山より 中央は亘理町入り口 右は三十三間堂遺跡を説明する伊藤教授》

  二 奈良・平安ロマンの道

 ロマンの道東街道は皇国地誌付図に朱線で示され、「東海道」と記されています。青線は陸羽街道(奥州街道)です。この道は7世紀半ば、多賀城に国府が出来る前の郡山官衙遺跡に通じていますので東山道と考えてよいと思います。
 一般に東街道と呼ばれているこの道は、岩沼市南長谷の千貫神社、東平王の塚を経て、三色吉<ミウルシ>の金蛇水神社へと続き、名取市に入り笠島廃寺跡・道祖神社を通って実方中将の墓につきます。さらに北に進むと、三日町に熊野那智神社の遙拝所えある御仮宮があります。ここは「五方の辻」と言われている交通の要衝です。おもしろい石碑が立っています。

「せんだい 中田町ゆり上 まし田まち」「くまのしんくう ほんくう」「なち山 つほぬま」「すこう町 川さき町 村田町」「いまくまの たうそ神」
 三日町は江戸時代の初め(寛永2年)に新たに町立てが行われるほど人々の交流が盛んでした。「嚢塵埃捨録」(仙台叢書7)という文化8年(1811)に成立した本によると「慶長の初めまで上方辺より津軽・松前などへ通行する旅客、柴田・槻木駅より菅生宿にかかり」と賑わいの情景が記されています。


《左は金蛇水神社 中央は道祖神 右は実方中将の墓》


《左は熊野那智神社仮宮 中央は道標 右は熊野神社》
 

  三 仙台周辺の古道

 今までアップルライン・ロマンの道をたどり、これからいよいよ仙台市に入ります。仙台市は伊達政宗の城下町です。ということは古い道は仙台城下絵図には描かれていないということです。
 この描かれていない道を引き出すのがこのホームページの主題です。さぐるために一番正確なのは発掘調査でしょう。太白区大野田の「王ノ壇遺跡」では道路の遺構が確認されています。
東山道は郡山から利府長町活断層線を通り、利府町の菅間に比定されている栖屋(スヤ)で北に向きを変え「黒川駅」吉岡に向かいます。
 中世の板碑も古道への郷愁を誘ってくれます。江戸時代に書かれた記録や絵図・地図も多くのことを教えてくれます。たとえば元禄期に成立した『仙台鹿の子』や「嚢塵埃捨録」などがあります。後者は塵と埃を袋に入れて捨てるという書名ですが、どうしてどうして興味ある内容が一杯詰まっています。このほか「高野家記録」などの日記類、紀行文などの諸記録にもキラリと光るものに出会います。
 永い間伝えられてきた伝承や地名も重要な手がかりを与えてくれます。
 理屈はさておき、歩き始めることにしましょう。まず国府多賀城への道をたどることにします。

 四 伝承東街道と王ノ壇遺跡

 「五方の辻」を北に300bほど進むと田の中に右折する道があり、この道を進むと仙台市と名取市の境に出会い、仙台市側はぎっしりと住宅・商店街がせまっています。この境界線に沿って北東に進むと視野が開けて旧道らしき道があります。地元ではこの道を「あずまかいどう」と言っています。もとは三日町から直線道だったかもしれません。
 途中、右に文永2年(1273)の板碑などを見ながら名取川の土手に上がれば向かいが大野田で、昭和63年から平成4年に発掘された中世の遺構「王ノ壇」遺跡です。南大野田の仙台水道局の近くに平安時代の「名取寺跡」と言われる所があり、東街道と茂庭街道が合流し「道合」(ミチアイ)といっています。『仙台市史』の古代中世編には、この「東街道」は中世の奥大道を継承した可能性が高いと記しています。この道跡の発掘調査によって巾3〜4bに1b前後の側溝のある全長360bの道路遺構が確認されています。この道は7世紀後半創設された郡山官衙遺跡に向かっています。
 この「奥大道」は「東山道」と重ならないのかという素朴な疑問が残ります。


《左は柳生の東街道 中央は道筋 右は道路跡》

 

  四 利府長町活断層線上の古道

 陸奥の国府多賀城が創建されるのが神亀元年(724)です。郡山遺跡ははそれよりも早く7世紀後半成立ですので、私たちが学校で習った大化の改新(645)から間もなくのことです。
 左下の図は郡山付近の部分図ですが、JRの線路に沿って「大道東北」「大道東南」「大道東」「大道西南」「大道西」という地名が記されています。「大道」は東山道ではないでしょうか。
 郡山遺跡から広瀬川を渡り、JR「東街道踏切」を過ぎると文化町(若林区)で北に直進、白鳥神社を過ぎると、木下の薬師堂からの道と交わり、そのT字路に「東街道」の辻標が立っています。

東街道は「みちのく」と「やまと」を結ぶ重要な交通路であった。県内では古代の史跡と伝説に富む名取平野西の山裾を通り、陸奥国分寺を過ぎて多賀城に向かったと伝えられるが、詳細は定かでない。
 ここから東北進すると東華中学校の西に「東街道」と刻まれた碑があり、宮城野を過ぎると仙石線もと宮城野原駅(今は地下)のそばが「東街道踏切」でした。国分寺からこの辺までの東が宮城野です。沿道には鼓(ツtミ)の胴を作ることができるような萩の木の下を都人や蝦夷の討伐に向かう兵隊の集団の情景を頭に浮かべてみて下さい。花が咲くのは今の宮城野萩より3週間ほど早かったようです。現在も松島瑞巌寺には直径15pほどの木萩が健在です(「宮城野の木萩」を見て下さい)。
東街道踏切を越え右折し、宮城野区役所・原町から多賀城に向かいます。
 しかし東山道は多賀城に直結せず、利府から方向を北に変え、塩竃吉岡線に沿って黒川駅(吉岡)に向かいます。東山道と多賀城を結ぶ道が山王遺跡で発掘された「東西大路」ではないでしょうか。


《左は郡山官衙遺跡附近図 中央は文化町東街道踏切 右は辻標》

 

《左は「東街道」碑 中央は瑞巌寺の木萩 右は多賀城東西大路『仙台市史』》

 

 五 七曲がり坂

 国道286号バス停大年寺前で下車し門前町に下りると「東街道」の標柱が立っています。ここから兜塚古墳を右に見ながら進むと再び国道に出合います。旧道は国道の拡幅工事のため消滅していますが国道の北に幅1間ほどの小径が残り、愛宕山装飾古墳にたどり着きます。
 ここで道は三方向に分かれます。その一つは昭和19年に造成された新道、その二は大満寺を万治2年(1659)に経ケ峯から移設するために開削された道、その三が万治年間以前の東街道です。
 愛宕山は道路開削のため切り通しとなり、階段を上がると、今歩いてきた小径につながります。「七曲がり坂」というのはこの急坂を言うのでしょう。ここからは平坦な道で大満寺前を通って長徳寺で万治年間以後の道と合流します。
 間もなく鹿落坂を下りますが、坂の上に仙台三十三蕃札所の鹿落観音があります。「仙台萩」という古書には「越路 東街道の跡に云うが如く往来の人坂川を渡り、越えぬればとて斯く名付くという」とあり、「仙台名所聞書」には「都より名取・笠島・道祖神前、山根について茂ケ崎、七曲がりにかかりて、此鹿落坂を越し大河を渡り米ケ袋へ」とあります。鹿落坂を下りきった所に「大山府君」という石碑があり、ここで広瀬川を渡ったのでしょう。


《左は大年寺前の標柱 中央は兜塚 右は愛宕山への小径》

 

《左は愛宕山階段 中央は鹿落観音 右は広瀬川渡河地点》

 

 六 最上古街道

 東北大学附属植物園内に最上(山形)への古い街道が残っています。説明板に目を通してみましょう。

享保八年(1723)の『仙台萩古地誌』には仙台城の虎ノ門あたりから植物園の正門付近を経て愛子方面に通ずる最上古街道があったと記されている。蒙古の碑はその沿道に建てられた道しるべ石でもあったと言われている。また残月亭跡附近に、後で北山に移された青葉山寂光寺があって蒙古碑はその門前にあった 
 蒙古の碑から残月亭跡を経て西に進むと尾根伝いの道が見事に残され、周辺の植物景観を背景に、往時に思いをはせ楽しむ事が出来ます。
 道は東北大学工学部の敷地で途絶えますが、その延長は仙台西道路青葉山トンネルの出口にある郷六館につながります。「嚢塵埃捨録」には「千代古道 仙台城中に古海道あり、昔の往還道で出羽へ往来せし道、羽州街道西南に一際高き松山あり、山の名を蕃山という」とあるのはこのあたりでしょう。
 郷六館跡には建武5年の板碑など3基があり、近くの大梅寺の板碑、蕃山の山すそにある弥勒寺の板碑、ここから太白区(秋保)の二口街道に沿う枇杷原ー国久(クニギュウ)ー中野ー大雲寺と板碑が続きます(『仙台市史板碑編』。やがて藩境で道は山伏峠を通って山寺へ行く道と清水峠越え高野宿(コウヤ)への道に分かれます。
 次に最上古街道の東への延長は「仙台萩」にあるように虎ノ門から川内筋違橋大松沢屋敷跡を経て、澱橋を渡り「澱不動尊」から中山古街道に合流するとも考えられます。大松沢氏の屋敷内には板碑があり、その板碑は現在、片平町仙台大神宮に移されています。東北大学図書館蔵『源貞氏耳袋』の4巻91番「モクリコクリ古跡」には「川内筋違橋大松沢氏宅古昔往還にて」とあります。ただモクリコクリ碑のあるところとは別なようです。

《左は蒙古の碑 中央は最上古海道 右は残月亭》

《左は郷六板碑 中央は澱不動尊 右は沿道板碑》

 七 中山古街道

 輪王寺の西脇の坂道を下ると古街道町内会があり、荒巻小学校を右に見ながら神明社の所で梅田川を渡ります。段丘崖の外縁に沿って進むと「水の森公園」が見えます。
 公園に入り叢塚(クサムラツカ)の前を通り過ぎると地域の方が名付けた「秀衡街道」です。公園の東端を通り抜けると、高柳川が流れており、橋のたもとに石碑が立っています。
 目の前に加茂大橋が見え、古街道は橋の東に続いており、住宅の裏に道跡が残っています。街道は北環状線を越え七北田川に沿って進むと道路神社があります。この附近が平成2年の発掘によって中世の道路遺構が出土した沼遺跡です。
 ここで七北田川を渡ると本七北田です。新しく奥州街道が造成され、今までの道は古街道となり、本七北田の人たちは七北田宿に移りました。


《左は輪王寺と寂光寺の間に古海道 中央は加茂大橋東に残る道跡 右は発掘された道跡》

 仙台藩重臣の高野倫兼が、泉区山の寺洞雲寺に参詣した時の記録に「七北田橋近くの一里塚から右に作場道を二十町余で中山古海道に出ぬ」とあります。倫兼はこの後、北山寂光寺から愛宕社内荒巻明神(現羽黒社)・半子町芋沢街道から大崎八幡を経て広瀬川を渡り、亀岡の仙台屋敷に帰宅しています。
 中山古海道は輪王寺から南は城下町造成によって消えていますが、「嚢塵埃捨録」に「鹿落で仙台川(広瀬川)を渡り、片平丁・支倉・新坂にかかり北山輪王寺の中山通に至り」とあります。    



 

 ホームヘ戻る

高倉淳のホームページ