炭焼藤太

プロローグ

金売吉次と炭焼藤太の伝承については、ほとんどの読者が知っておられるでしょう。このHPではその伝承を史実としてどのへんまで裏付けられるか、資料を紹介してみたいと思います。左の写真は栗原市金成畑(ハタ)にある藤太夫婦の墓です。その墓への登り口に「炭焼藤太 夫婦の墓」という説明板が立っています。引用してみましょう。

 奥州産金開発とともに平泉藤原氏隆盛の頃、金成・畑村に炭焼きをしている藤太という朴直な男が住んでいた。ある日、京の都から、清水の観音のお告げで夫たるべき人が奥州金成にいることを知らされた長者の娘(三条右大臣の娘おこや姫の説あり)が、遠く金成に下ってきた。二人は夫婦になり、橘治(橘次)、橘内、橘六という三人の子をもうけた。息子たちは成長し、金田八幡宮の山裾に、東館、南館、西館と屋敷を構えていたという。
 兄弟は藤原秀衡に仕え、京と奥州を往来する豪商となった。特に兄橘治は義経の案内役として登場し、また近在の寺社へ仏像を奉納し勧請するなど、金売橘治信高としての事績は有名である。
 藤太夫婦は平安末期の仁安年中に亡くなり、常福寺の裏山、寺場山に墓石があったが、風化をいたみ正徳五年(一七一五)、時の大肝入佐々木左内が郷土の偉人藤太を讃えて碑文を刻み、現在地に移って双石の石塔とともに建立したものである。

一 炭焼藤大夫事蹟


 仙台市民図書館に「梧渓叢書」があり、この中の「子平雑記」に貞享3年(1686)刊「炭焼藤大夫事績」があります。同叢書は幕末から明治にかけての学者一族の岡家の旧蔵叢書です。「炭焼藤大夫事績」は刊本としては古く、また活字では、「菅原昭治・研究紀要「金成・畑村の金売橘治とその周辺について」金成史談会員」のなかで、常福寺に伝わる古書を昭和二十二年頃、時の住職大枝常雄氏が解読したものとして紹介されています。内容は炭焼藤太の伝承を裏付けているので紹介することにしましょう。

  藤太ハ白河近衛帝の時の人なり、奥州栗原郡三迫畑村の産にて、
  其為人質朴無欲にして、炭を焼て生業とす、其頃京師宮方の
  姫君におこやの前とて侍りしに、如何成ゆへにや、年たけ給ふまて定
  夫とてもなく暮し給ひけれハ、清水の観音へ祈願し給ふ、満参の
  暁に奥州栗原郡といふ所に炭を焼藤太といふ男こそ汝か夫なれ、
  急き下りていもせの語らひせよとあらたなる霊夢を蒙り、夫より
  乳母一人供なひて、はるはる此所へ下り、藤太にめくりあひ夫婦の契り浅
  からす、本より人跡まれなる山家なれハ、やつやつしくそ暮し給ひける、
  或時おこやの前砂金一包取出し、是にて姉歯の市へ行、米を買給へと渡され
  けれハ、藤太姉歯へゆかんとて金成村を通りしに、折しも沼に雁鴨むれ居
  たりしを打たんとて、包し金を礫に打て手を空にして帰りける、おこやの前、あれ
  ハ金とて此世の宝なるに礫に打給ふこそ云甲斐なけれとかこち給へハ、藤太
  あれこそハ世に多き物なれ、我住あたりを見候へとて案内して見せける
  に、岩窟砂礫ミな黄金にてそありける、されハこそ大悲の示験むなし
  からすとて、それより金を掘らせける程に、程なく富饒になり、おこや
  の前の腹より、橘治・橘内・橘六といふ三人の男子をまふけ三葉四葉に
  殿化して大福長者となり給ひ、今か世まても美名を残せり
 一炭を焼く辺りより金を掘出したる所を今に金山沢といふ
 一炭を焼たくわへ置き、笹にて上を葺けるゆへ其所を今に笹の蔵といふ
 一砂金を礫に打し所を金沼といふ、金成村の内にあり
 一金をふき、たかねを拵し所を今に鍛冶屋敷といふ
 一金を干拵し所とて今にほしや沢といふ、金成村の内にあり
 一藤太黄金にて鶏壱番(ヒトツガイ)作り山に埋め、山神を祭りしとて其所を鶏
  坂といふて、天気晴和の折ふしハ今に鶏の声ありといふ
 一藤太後に官名を給り藤大夫と号すといふ
 一藤太ハ中森の館に住す、今は田野と成り名のミ残れり、農民の鋤・
  鍬に古瓦瀬戸物等掘り出す事常に有、近年朱を入し瓶抔を掘出しけり
 一昔ハ金成畑(ハタ)小迫一村にて都て金成村といふ、藤大夫釈迦堂を造立し、百体
  本尊を安置し、堂塔荘厳美を尽せしとそ、今ハ其所を堂所といふ、され
  ハ元和・寛永の頃迄ハ小き堂へ仏体数十躯蔵(オサ)め置しか共、狐狸休の休、樵
  夫・牧童の庵と荒果し、それさへいつしか野火に焼失して熄燼(うずみび)の内より
  救ひ出せし仏体数多ありしを、金成福王寺へ移し蔵めぬ、その内釈迦
  の一体のミ尊容具足し給ひしを、去年貞享弐年 国主肯山公(四代綱村)の
  厳命にて仙台龍宝寺へ移して永く本尊とし給ふ、右の賞賜として
  福王寺へ御知行一貫文を御寄付あり、毘首偈摩赤栴檀の霊木にて
  作り、京都嵯峨の釈迦と同作同容のよし、誠に希代の霊仏也
 一藤大夫氏神を祭りし所をならひ山といふ、今ハ稲荷の宮なり
 一愛宕の宮を朝日山といふ、天神宮を北山といふ、熊野三社ハ金成の内に有、
  何れも藤大夫灌頂の地也、其頃祢宜神主の住し所を祢宜屋敷といふ
 一おこやの前、畑(ハタ)へ下り給ひし時、折しも雨ふり川水ましけれハ、小褄をはさ
  み越給ふとて其川を小褄川といふ、今ハ妻川といふ
 一おこやの前の本尊黄金一寸八分の観世音一体、今ハ常福寺の秘仏
  たり、古ハ笹の蔵の山頂に堂ありて安置せしとそ
 一おこやの前、京より下り給ひし時、氏神稲荷大明神長途を守護し下り給ふ
  により、祭りし所を稲荷山といふ、金成村に有、今に小き宮有て年時の祭典おこたらす
 一藤大夫仁安弐年三月十七日卒す、法名ハ開基常福寺殿叟長楽居士
 一おこやの前、同年八月七日卒す、法名ハ徳雄院智眼貞慧大姉
 右夫婦の位牌此村の常福寺に有、墓ハ五輪也、文字漫滅見分難し、其
 所をとふのこぶしといふ
 一橘治兄弟三人の居館の跡金成村にあり、西館・南館・東館といふ、今ハ畑に
  成り折々瓦抔を掘り出す
 一橘治後ハ京都に住居して年々奥州へ上下して金を商売したり
  しとそ、京に長者屋敷之跡有といふ、秀衡か命に依て牛若丸を
  伴ひ下りし事普く世の知る所なれハ略す、義経公平家を亡し
  給ふ後三人共士林に列ね給ひ、秀衡へも功業ありしに依て秀衡より
  恩地与へられしといふ
 一三人の墓ハ此所にハなし、奥州白川かこ宿の近所に三人の五輪あり、
  其外京都相州金沢・羽州最上に橘治の宮ありといふ
 右仁安弐年より茲年まて五百弐拾年に成る、藤大夫造立釈迦の
 尊造さへ去年仙台へ移りとらせ給ひける程に、事績の亡ん
 事を恐れて古老の口碑に伝りし所を記し置ぬ
        尓時貞享三年二月吉日

《龍宝寺所蔵釈迦如来立像→金運の印・金鶏》


《金田八幡参道入り口 金田八幡 橘治屋敷の板碑》

二 「炭焼藤太物語」【 まえ語り】

 炭焼藤太の伝承は、北は青森から山形・福島・神奈川など全国各地に分布しています。その内容の共通点を柳田国男の「海南小記」より列挙すると@貧賤な若者が山中で一人炭を焼いていたこと、A都から貴族の娘が、かねて信仰する観世音のお告げによって、はるばる押しかけ嫁にやってくる、Bは炭焼きは花嫁から小判または砂金を貰って、市へ買い物に行く道すがら水鳥を見つけてそれに黄金を投げつける、Cあれがそのような宝なら「わしが炭焼く谷々に山ほどござる」と言って長者になるという筋書きです。
 貞享3年刊(1686)の「炭焼藤大夫事蹟」は、これらの条件が揃っており、加えて仙台藩の正史(伊達治家記録)で裏付けることの出来る史実があり、さらに記載されている地名が多く現存しているというメリットがあります。
 また、旅行家として有名な菅江真澄は、天明6年(1786)3月2日には金成に泊まり、4〜6日まで金田八幡宮別当清浄院に泊まっています。6日には雪降りのため家の中にいました。この時に「炭焼藤大夫事蹟」を見て書きとめたと推定されます。ただ「遊覧記」にあり「事蹟」にはないおこやの前が『見る人、身の毛もよだつ」醜い女と記載しているのは、清浄院所蔵の能面を見て付け加えたのでしょう。樺太やエトロフを探検した近藤重蔵は清浄院に数回訪れており、「陸奥国栗原郡金成村八幡山之図」(版画)が届けられています。


《八幡山の図 能面(右が武悪)》

 「炭焼藤大夫事蹟」は、『国書総目録』には写本として宮城県図書館所蔵が記載されているだけですので、貞享3年は稀覯本(珍本)なのでしょう。もし柳田国男始め後世の民俗研究家が見ていたら、この本について取り上げていたと思われますがその形跡はないようです。
 このHPでは、「炭焼藤大夫事蹟」を中心にして筆者が筋書きを書き、「みちのく杜の湖畔公園」で民話を語っている森祐子語り手によって「炭焼藤太物語」を聞いてもらうことにします。「事蹟」の前半でとめれば上々なのですが、後半の「事蹟」に登場する現存する産金地名や推定出来る地名を含めて語ってもらうことにしたいと思います。民話については門外漢の筆者に免じてご容赦ください。
 なお、砂金は金鉱石が風化して母岩から飛び出た金の粒が川底などに堆積したものです。その間、数千、数百万年単位の長い時間がかかります。砂金には「川金」と「柴金」があります。私たちが知っているのは川金です。この川が土地の隆起と共に陸地になり、砂金のある所に柴がよく生えていますので柴金と言っています。物語にでてくる藤太の黄金は、この柴金なのでしょう。佐渡の金山のように、坑道を掘って採取するようになるのは、戦国時代以後のことです。

   

炭焼藤太物語語り (森祐子語り)
 

  炭焼藤太という男の人 あったど。炭焼藤太には、3人の息子 あって源義経を 平泉の藤原秀衡につれてきた あの有名な金売吉次が 藤太の一番上の息子なんだって さア、この炭焼藤太は、どんな人なのか、伝説を ひもといてみましょう。
 

平安時代の頃、みちのくへ下る街道を、一人のお姫さまがお供の人をつれで歩いていだったど。  お姫さまは、道ばたのお地蔵さまに手を合わせ「どうぞ藤太さんに会えますように」と祈り、峠に立てば「どうぞ無事に藤太さんに会えますように」と願って旅をつづけでいだったど。

 このお姫さまは、京の都おくげさんの娘で、おこや姫といったんだど。おこや姫は、人より少し面くせえがったんだど(みったくない、みたくない、みにくい) そのためが、嫁のもらい手もなくって親だづも 心配し おこや姫も 肩身の狭い思いをして 悩んでいたんだど
 清水の観音さまに おまいりして 「どうぞ 私に 夫をお授け下さいませ」と 願いつづけでいたんだど。 満願の日 夢枕に、清水の観音さまがあらわれでね
 “みちのくの金成で、炭をやいている藤太が汝の夫なれ いそぎみちのくに下りなさい”
というありがたいお告げであったど。
 親だつも喜んだど。遠いみちのくに、娘をやるのは心配だなあ おこや姫のしあわせを願って お供一人と砂金の包みをもだせでくれたんだど。
 おこや姫は、まだ見たごどもねえ藤太に 想いをはせながら、みちのくにやってきたど。みちのくの金成についだど、土地の人に 「炭焼藤太さんの小屋はどこでしょうか」ときいたんだど
 あの畑川を越えでゆくと、畑村でござんすよ」と教えてくれたんだど。 畑川の水は、雨が降ったあとで 水かさが増していたど 橋はどこにも見えねえがったんだど。
「ああ 藤太さんに逢いだいなあ」 おごや姫はいぎなり着物の裾をずっと ずっと ずっと、お尻のところまで たくしあげだど じゃぶ じゃぶ じゃぶ じゃぶ とわだっていったんだど。
 「ああ わだりきったあ ああいがったあ」 それから山道を登っていったど。 行きが行くと、金山沢の笹屋根の藤太の炭焼小屋だったど 藤太は、ここで炭を焼いで それで生業(ナリワイ)にしていた若者だったど なかなかの働き者だったど、おこやは。とうとうついだ。おこや姫は、もう一所懸命だったど。 すすで真っ黒に黒光りしたひげづらの藤太の顔を見ながら
 「あなたが藤太さんですか。私は、おこやと申します、清水の観音さまの お告げで 京の都からやって、参りました、どうぞ 私を あなたのお方にして下さい」 と頼んだど。  たんまげだのは藤太だ。なんぼめんくさえといっても おなごの人が あの遠い都から わざわざ みちのくのここまで やってきた まして 俺のお方になりたいなんて
「あのお こんな こきたないところで ござりすよ なんにもねえところで ござりすよ こんなところでいいのでござりすか」 ときいたんだど  
 おこや姫は「ハイ」といって、藤太に逢えたうれしさと、旅の疲れとで 藤太の胸にたおれこんだど。 藤太は、両方の手で、しっかりと、おこや姫を抱きとめだど。
 藤太のお方になったおこやは、貧乏だけど つますぐ 暮したど すばらくすると お米がなぐなってしまったど おこやは、親がらもらったずっしりと重い 砂金の包みを藤太に 手渡しながら 「これで お米を買ってきて下さいと」と頼んだと
 藤太は、それをなにげなく ふところに入れだど 姉歯の市へ米を買いにいっだ その途中、金成を過ぎだら 沼があって そこに鴨がいっぺえ群れでいだど 藤太は ああこれとっていったら 喜ばれべなあと 思ってふところにあったずっしりと重い砂金の包みを取り出して、礫にして びゅんと鴨さぶっつけだど 鴨にあたった砂金の包みは こわれて キラキラキラと、沼の中に沈んでいったど 
   お米を買ってくるのを待っていたおこやの前に ニコラニコラとしながら鴨持ってきたんだど
「あのお あなた お米はどうなさいましたか、渡した砂金はどうされましたか」ってきいたど すると 藤太は ああ金成を通ってゆく途中に あれ 沼あって 鴨いっぺいいただがら あれ礫にして ぶんなげて とってきたじゃ と言って 鴨を見せだと 「あれえ あれは大切な宝なんですよ 金といって 何でも あれは砂金というものなんですよ 本当に 大事なものなんですよ 」泣きいそうになりながら口説いたたんだど
「なに、おこや あれがそんなにだいじなものなのか 金というものなのか、砂金というものなのか  わかったあ おこや こい」
 と そういっておこやの手をとると、わらわらと走って、藤太の炭焼小屋に行ったんだって そして そばの山肌にある柴を バリバリと はがしたんだって キラキラキラ  「おこやみろ」 こちらの山肌にある柴を ベリベリとはがしたど イラキラキラ 「おこや見ろ」 なんと 藤太の小屋のまわりは 一面砂金だったと。
 毎日 藤太とおこやは 金山沢で砂金をとり 金流川で砂金をとり 金干沢で干して その干した砂金を 牛車につんでクルマ坂を通って 都へはこんだど
 たちまちのうちに 大金持ちになったと 長者さんになったんだど 
藤太とおこやに 三人のおとごわらすっこがさずかったと 一番上を“きちじ” 二番目を“きちない” 三番目を“きちろく”と名付けたど
一番上の吉次は、 のちのち、源義経を平泉の藤原秀衡につれていった あの金売吉次であると 吉次は、炭焼藤太の息子であるという
          炭焼藤太物語り 終わります

 藤太は後に藤大夫と改め、「堂所」(夜盗坂)に釈迦堂を建て、香木の赤栴檀(シャクセンダン)で像の高さ160pの釈迦如来立像を本尊としましたが、一帯は荒れ果て多くの仏像の中から本尊一体だけが金成福王寺に移されました。この刊本が出版される前の年に、仙台藩四代藩主綱村の目にとまり、大崎八幡神社(国宝)の別当寺龍宝寺に移されました。このことについて「事蹟」は「去年貞享二年、綱村公の命によって仙台龍宝寺に移し」と身近なものとして記しています。
 金成宿の東の八幡山には由緒ある金田八幡神社があり、山裾には金売吉次の屋敷跡といわれる東館・南館・西館があります。

三 藤太石塔偈

 左の碑文は宮城県図書館所蔵の菊田文庫の「炭焼藤大夫事蹟」(写本)より引用したもので、同碑文はご覧のように読みにくいので、前記の菅原論文に意訳文が記載されていますので引用することにします。


 郷土の人々の伝説によると、昔、近衛天皇の御代に、奥州栗原郡三迫の中に、藤太という人が住んでいた。この人は生まれつき純朴で正直な人で、炭を焼いては商いをしていた。
 ある日、旅の女が訪れて、藤太の家に泊まる事があった。そしてどうか私を嫁にして下さいとつよく迫るのであった。藤太がその訳を尋ねると、自分は京の都の人であり、この山里に黄金があることを知っていると答えた。黄金を掘ることをすれば、日々たくさんの金を得ることができることを教えてくれた。
 やがて藤太には三人の子供ができた。橘治・橘内・橘六といい、願ってもない大金持ちになった。 藤太が家を起こしてから今に至るまでこの里を「金生」と呼んでいた。
 その里の上に、三人の息子が住んでいあ古い館がある。南館・東館・西館といわれる。その館の麦手の方に金山沢といい、藤太が金を掘った所があったようだ。またその左手には、鶏坂がある。大変多くの冨を得た頃に、金鶏を作ってそれを山の頂に祀って埋めたという。その金鶏が時々鳴き出すことがあるという。その南側には、藤太夫婦の墓があり、二つの五輪の石塔がある。この古い跡は、今は大肝入の佐々木左内の田荘のつづきにある。佐々木氏は性来、善人で人に恵を施し、誠実な気持ちで富裕になった人である。
 私はこの旧跡を訊ねてみようと願っているが、年月は既に五百余年を経過している。石塔は倒れ、その碑の文字はすり減ってきえているという。
 私はそこで藤太の遺徳を讃えてこの石碑に事蹟を述べる。佐々木氏も、この旧跡がますます風化し消滅することを心配している。私は今、特に石碑を建立し、事蹟を刻す、これを後世にのこしたいと思う。
 藤太の遺徳を讃えて言う。
 藤太は、大変真心深く、京の都からきた女(おこやの前)に心をうたれて夫婦となってからは、とうたは幸せな暮しになったのである。今は只、藤太の功績は、二つの五輪塔を残すのみである。後世に残る遺徳というものは、太古の立派な人への顕彰でもある。
 時は正徳五年(一七一五)陰暦四月十六日
臨済正宗三十五世前住大年河北開創鳳山瑞老人書

四 金成の産金地名

栗駒山から流れ出ている一迫川・二迫川の合流する所に姉歯横穴古墳群があります。この古墳群は渡来人の造った墓と考えられています。その付近には砂鉄で鉄を製造したと思われる「鍛冶屋鋪」の地名がのこり、砂金を流したと伝わる場所があり、金成村はその中心であり、「金生(キンセイ)」は金成の語源でしょう。金生の近くを流れる夏川の近くには「金沼」という沼がありました。その川の上流にはの畑村には「金山沢」の地名があります。炭焼藤太が炭焼きをした所と言われています。その近くには砂金を干したと伝える「干谷沢」があり、採集した砂金を牛の車で運搬の途中に転落し、牛が死んだと伝える「車坂」という地名も残っています。図を見てみましょう。@は炭焼藤太の墓がある所、Aは秦氏の渡来したと思われる畑村、Bが藤太の居住した跡、Cは「くがね地下道」、D金田八幡、E干谷沢、F夜盗沢、G金生(キンセイ)、H夏川、J姉歯、K常福寺、L福王寺等がある。主に産金地名で、金属地名まで広げると周辺にはまだ多くあるでしょう。

 付けたり 1

《付:仙台市博物館「特別展平泉」の金鶏山復元図、説明文によると経塚であることが判明とある》

上の映像は金鶏山の想像図です。説明には「秀衡が一夜で富士山の形に山を築き上げ、雌雄一対の黄金の鶏を埋めたと伝えられてきたが、発掘により清衡依頼代々、教典を埋めた経塚であることが判明しました」とあります。また、金売吉次の屋敷跡も発掘により寺院跡だったようです。
 金成の伝承も発掘あるいは鑑定という科学的方法によって明らかにしたいものです。
 発掘は予算を必要としますが、発掘や測量で使用するピンポールという道具を使い、地中に眠っている礎石・根がため石を探るのも選択肢の一つとしてあるのではないでしょうか。「事蹟」にある「堂所」、伝承にある「夜盗坂」や、八幡山の金売吉次兄弟の屋敷跡などがあります。お医者さんが胸に聴診器をあてるといろいろな情報がわかるのに似ています。

 付けたり 2

《付:「増補行程記」金成宿 下欄は炭焼藤太に関する書き込み》

 「増補行程記」に描かれた金成宿で、正面に「御本陣 菅原助左右衛門とあり栗駒屋の豪邸です。「有壁まで二里六丁」とあります。左の方に「下館 吉次館と申すよし」続いて「まかろのはし」とあるのは、この橋を渡って夜盗坂に向かいます。下の画の旗川でしょう。炭焼藤太に関する記事を読んでみましょう。(」)は行替えです。

金成とは古事俗説」に似たりといへとも、昔し」金売吉次か親炭焼」藤太と云(マウスナリ)。正直実朴ニして」なす斎天に叶たればにや」一婦来て自ら妻(ツマ)と」なる。(是ノ辺稲荷の社有、是霊を祭ると云々」至て貧敷か、此辺近キに」翁沢と申侍る所より金(コカネ)涌出て」是を得て福祐の月」光をまして、吉次・吉内・吉六」を設て財宝を譲り」此市に金を売たる所故ニ」金成と申よし、俗説といへとも」是(ゼ)とすべし。吉次は後に」義経公の家臣となる(此辺吉次館有)

 付けたり 3

《付:旗川は畑村よりの川、背景の山は八幡山 左画は十万坂》

 この画は渋江長伯著「東遊奇勝 三」の寛政11年4月6日よりの引用です。翻刻発行は十和田市在住の山崎栄作さんです。右に「旗川」は畑村を流れる川で、現在の夏川です。畑は渡来人の秦氏が背景にちらつきます。姉歯横穴古墳群は渡来人の墓と言われています。また夏川は砂金の採取・選鉱は夏場とのことでいずれも砂金と関連するのかも知れません。旗川に架かる橋は、「増補行程記」で金成宿を出てすぐ橋が描かれています。今は国道4号に出て新町大橋で渡っています。昔は金成宿はずれから橋を渡り夜盗坂に向かったかもしれません。後ろに見える山は金田八幡の山でしょう。左の画は十万坂の画で、手前を金流川が流れています。本文を読んでみましょう。

  寛政十一年 東遊奇勝 四月六日 雨
金成之駅迄出、旗川の橋を渡り、幽谷寺」右手金売橘次か旧居のよし、西館・南館」東館と山城の跡三つ相並ふ、何人の居」城か詳ならす、奥州の俗義経・弁慶」八幡太郎・安倍貞任の類を説く計、半ハ」雑戯取雑て実事となす事尤も多し」笹の居村山入にあり、昔吉jか父金を」掘りたる所、其坂の上り口ニあるよし」夜盗坂長き難所ニてもなし、先年此所に」夜盗すみけるよし」坂の上にクトレカ沢あり、左に畑村を望む」村後の山ニ藤太か墓あり、藤太成ものハ吉次か父」なり」瀬のうら村新田堤」瀬の浦橋を渡り左の山手の竹藪を十万」藪と云、古ハ此竹藪ニて弓十万張出せし」よし、今ハ壱反計の藪地なり」十万坂より下り口を有壁坂と云」有壁の宿」宿内川あり」観音寺・寺坂・沢田・杉山城(以下略)

 付けたり 4


《古生代の地層と鉱山分布 砂金採り絵馬(東北歴史博物館「特別展「仙台藩の金と鉄」》

 砂金は古生代の金鉱石が風化して金粒が流出したものです。砂金には、川から採取する川金と、土地が隆起して集積した砂金の上に柴が生えている柴金があります。砂金がなくなると金鉱石を掘削して採金する山金があり、これは戦国時代以降になります。
 平泉の金は川金・柴金ですが金鉱石があることが必要です。図を見ると北端が盛岡で南限が涌谷の北上山脈の南部になります。金成がこの範囲なのか疑問が残ります。
 右の絵馬は、山形県西川町月山神社藏です。砂金採取の様子がうかがえる珍しいものですと説明されています。

 あとがき

 最後に、このHPの稿を草するにあたってお世話になった方にお礼を申しあげます。私が「仙台領の街道」で栗原市の踏査するとき、一緒に歩き、案内をしていただいた栗原郷土研究会長菅原昭治さんです。またNHK文化センター泉教室の古文書講座で助言をしていただいた『栗原史発掘』の著者石川繁さんです。お二人が口を揃えて藤太伝説を史実で裏付けられるのは金成であると言われています。
 この伝説を貞恭年版の「炭焼藤大夫事蹟」の原本を拠り所として脚本を作り、「国営みちのく杜の湖畔公園ふるさと村民話の会」の語り手森祐子さんに語ってもらいました。
 今後とも私は史実として、ことに釈迦堂跡に関心をもっていきたいと思っています。HPは論文などと違い、ご覧になられた方、聞かれた方のの助言で加除訂正ができるといメリットがあります。よろしくお願いします。

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